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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<武器が素早く走るとき

「武器と道具を用法(人間の殺傷あるいは財の生産)によって区別することはつねに可能である。しかし、こうした外的区別は一つの技術的対象の二次的な適用を説明することができるとしても、一般に武器と道具が相互転換しうるという可能性を妨げないのだから、両者の内在的差異を主張することは非常に難しいように思われる。……「長期にわたって農耕用の道具と戦争用の武器は同じであった可能性は高い」。道具と武器の区別が存在しないような「生態系」(これは人類史の起源にだけあるのではない)を語る人もいるのであるから、同じ機械状系統 phylum machinique が両者を貫いて流れているように思われるのである。だがしかし、両者には内的な差異があるようにわれわれは感じる、たとえそれらの差異が本質的な、つまり論理的ないし概念的差異ではなく、近似的に把握することができるものにすぎないにしても。まず最初に、武器は投射と特に重要な関係をもっている。投げたり、投げられたりするものは、すべて武器であり、投射を行なう推進機こそ武器の本質的契機である。武器は弾道なのだ。「問題」〔前に投げられるもの〕という観念そのものが、戦争機械に関連している。投射のメカニズムを孕めば孕むほど、一つの道具はますます潜在的な、または単に暗喩的な武器のように作用することになる。しかし道具は、自分が孕んでいる投射のメカニズムを絶えず何かで相殺しようとするか、ほかの諸目的に合わせてそのメカニズムを改変しようとする。厳密な意味で、投げたり投げられたりする投射型の武器は、武器の単なる一つの種類にすぎないことは確かであるが、手そのものを武器として使うときですら、道具を用いるときとは別な手と腕の用法、つまり武術が示しているような投射的な用法が要求されるのである。逆に道具は、はるかに内向的というか内射的であって、外にある物質を均衡状態に導くために、ないしは内部形式に適合させるために、手を加えるものなのである。遠隔作用は、武器にも道具にも存在するけれども、武器の場合には遠心的であり、道具の場合には求心的である。道具は打ち勝つべきあるいは利用すべき抵抗に直面するのに対し、武器は避けるべきあるいは発明すべき反撃に直面すると言うこともできよう(反撃は、量的増大や防戦にとどまらない場合には、戦争機械の発見的要因、事態を急速に進展させる要因でさえある)。
 第二に、武器と道具が、運動や速度と結ぶ関係は「傾向として」(近似的に)同じではないということである。武器と速度の次のような相互補足的関係を強調したこともまたポール・ヴィリリオの本質的な貢献の一つである──すなわち、武器が速度を発明する、あるいは速度の発見が武器を発明するということである(武器の投射的性格はこれに由来する)。戦争機械は特有の速度ベクトルを出現させるのであり、単に破壊力ではないのだから、これには何か特別な名称を与えなければならない──すなわち「走行主義」dromocratie(=ノモス)という名称である。この名称の利点の一つは、狩猟と戦争の新しい区別の仕方を提案していることである。というのも、確かに戦争は狩猟から派生するわけではなく、また狩猟そのものも特に武器を発達させるわけではないからである。狩猟は、武器と道具が未分化で相互転換が可能な次元で行なわれるか、それともすでに道具から区別されて武器として構成されたものを自分流に使用するかのどちらかである。ヴィリリオが言うように、戦争が出現するのは、人間が人間に対して狩猟者と動物の関係を適用するときではなく、逆に、人間が狩猟される動物の力を捕捉して、まったく別の対人関係つまり戦争の関係(もはや獲物ではなく敵)に入るときなのである。したがって戦争機械を発明したのが放浪する牧畜民すなわち遊牧民であることは驚くにあたらない──牧畜と調教は、原始的狩猟とも定住的牧畜とも異なるものであり、またしく投射するものとされるものが作るシステムの発見なのである。一撃の暴力で倒す、言い換えれば「一度だけ」の暴力を構成する代わりに、戦争機械は牧畜と調教によって暴力の経済を、つまり暴力を持続させ無制限にさえする手段を樹立したのである。「流血や即時の殺害は暴力の無制限の使用すなわち暴力の経済に反するものである。(……)暴力の経済は牧畜民における狩猟者の経済ではなく、狩猟される動物の経済なのである。乗用馬において保存されるのは馬の運動エネルギーと速度であって、もはや蛋白質ではない(発動機であって、もはや食肉ではない)。(……)狩猟において猟師は野獣の運動を組織立った屠殺によって停止しようと目指すのに対し、牧畜民は野獣の運動を保存し始める。調教によって、騎乗者はその運動に合体して方向を与えつつ加速させようとするのである」。機械の発動機はこの傾向を発達させたものであるが、「乗用馬は戦士の最初の投射機であり、彼の最初の武器システムである」。戦争機械における〈動物になること〉はこれに由来する。そうすると戦争機械は乗用馬と騎兵以前には存在しないということになるのだろうか? この質問は的はずれである。問題は、戦争機械は自由な独立した変数となった〈速度〉ベクトルの発見をともなうのに、狩猟においてはその発見はなされないということである。この場合、速度は、まず狩猟される動物に関係する。この走行ベクトルは乗用馬に頼らずに歩兵隊によっても発見されうるし、さらに、乗用馬といっても、自由ベクトルをともなわない交通手段あるいは運送手段として存在することもありうる。しかし、いずれにしても、戦士は、動物から獲物というモデルではなく、発動機という発想を借りるのだ。戦士は、獲物というモデルを一般化して敵に適用するのではなく、発動機という発想を取り出して自分自身にそれを適用するのである。
 ただちに二つの反論が予想される。……
 第二の反論は、第一の逆で、より複雑である──速度は武器に劣らず道具にも属していて、決して戦争機械の専売特許ではないのではないか、という反論である。発動機の歴史は単に軍事的な歴史ではないことも確かである。しかし、質的モデルを探す代わりに、運動量だけを問題にしすぎる傾向があるのではないだろうか。理想的な発動機のモデルには、労働モデルと自由活動モデルの二つがあると考えられる。労働とは、抵抗に会いながら外部に働きかけ、結果を産み出すために消費ないし消尽される動力因であり、絶えず更新されねばならない。自由活動もまた動力因であるが、克服すべき抵抗に会うこともなく、動体それ自身に働きかけることもなく、結果を産み出すために消尽することなく連続する動力因である。速度の高低にかかわらず、労働の場合、速度は相対的であり、自由活動の場合は、絶対的である(自由活動は永久運動体といってもよい)。労働で重要なのは、「一つ」と見なされた物体(重心)の上にかかる重力の作用点であり、この作用点の相対的移動である。自由活動において重要なのは、いかに物体を構成する諸要素が重力から脱出して、点をもたない空間を絶対的に占拠するかということである。武器とその扱いが自由活動モデルにしたがうように、道具は労働モデルにしたがうように思われる。一点から他の一点への線的な移動は道具の相対的運動を構成するが、空間を渦状に占拠することは武器の絶対的運動を構成する。あたかも武器は動くものであり自己運動的なのに、道具はあくまで動かされるものであるというふうに。道具と労働のこのつながりは、以上のような動力的定義すなわち実在的定義を労働に与えないかぎりは、決して明白にはならない。労働を定義するのは道具ではなく、その逆なのだ。道具は労働を前提にしているのである。それでもやはり武器もまた、動力因の更新、結果を産み出すための消費ないし消滅、外的抵抗との直面、力の移動などをともなうことは否定できない。武器に道具の制約に対立しうるような魔術的力を与えようとしても無駄であろう──武器も道具も同じ法則にしたがっているのであり、これらの法則はまさしく共通の次元を定義するものである。しかしすべてのテクノロジーの原則は、ある技術的要素は、それが前提にしているアレンジメントに関係づけられないかぎり、抽象的であり、まったく無規定なものにとどまるということを、示すことである。技術的要素よりも優先するのは機械である。機械といっても、それ自体技術的要素の集合である技術的機械ではなく、社会的ないし集団的機械、つまり、ある時期に何を技術的要素として取り上げるか、それをいかに使用するか、その内容と適用範囲をどうするか、こういったことを決める機械状アレンジメントなのである。
 系統流が、芸術的要素を選択したり、性格を決めたり、発明しさえするのは、さまざまなアレンジメントを媒介にしてなのである。それゆえ、技術的要素がその中に組み込まれ、かつ前提にもしているアレンジメントを定義しなければ、武器についても道具についても、語ることはできない。この意味で、われわれは、武器と道具は単に外的に区別されるわけではないが、だからといって本質的な弁別特徴をもつわけでもない、と言っておいたのである。つまり、武器と道具は、何らかのアレンジメントに組み入れられるのであり、それぞれのアレンジメントに由来する内的特徴(本質的ではなく)があるということである。したがって、自由活動モデルを実現するのは、武器それ自体あるいは武器の物理的存在ではなく、武器の形相因としての「戦争機械」というアレンジメントなのである。他方、労働モデルを実現するのは、道具ではなく、道具の形相因としての「労働機械」というアレンジメントである。武器は速度ベクトルと不可分であるのに対し、道具は重力の諸条件に結び付けられている、とわれわれが言ったとき、われわれはただ二つのタイプのアレンジメントの差異を指摘したかったのである。たとえ道具がそれ自身のアレンジメントにおいて、抽象的にみてより「速く」、武器は抽象的にみてより「重い」としてもこのことに変わりはない。道具は本質的に力の発生と移動と消費に結びついており、労働の法則によって規定されているのに対し、武器は自由活動にしたがって時空において力を実行あるいは表出することにかかわる。武器は空から落ちてくるわけではないから、当然、生産、移動、消費や抵抗を前提にしている。しかし武器のこの側面は、武器と道具に共通の次元に属するもので、武器の特殊性にはまだ関係していない。武器の特殊性が現われてくるのは、ただ、力がそれ自体において把握され、数と運動と時空に関係づけられるとき、あるいは、速度が移動に付け加わるとき、である。」
(ドゥルーズ+ガタリ「遊牧論あるいは戦争機械」)
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