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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 夢の分子構造

「アレンジメントのこのような働きは、それを分解しつつ、その構成要素と、その関係の性格を考察してはじめて解明されるものである。『審判』の登場人物たちは、たえず増殖してやまない長大な系列のなかに現れる。つまり全員がまさに司法の役人であり手先なのである(そして『城』では全員が城とつながっている)。判事、弁護士、執行官、警官、被告だけではなく、女性、少女、画家ティトレリ、K自身も。そのうえ大きな系列は下位の系列に分割され、これらの下位の系列のほうは、それぞれに、いわば無制限の分裂症的増殖を続けるのである。例えばブロックは同時に六人の弁護士を雇わねばならず、それでも終わりではなく、ティトレリはどれも同じ絵のシリーズを出現させるし、Kはいつも奇妙な若い女たちに出会うが、そのそれぞれのふるまい方は大体同じタイプなのだ(訴訟が始まる前の恋人でキャバレーのホステスのエルザ、「彼を長い間遠ざけておきはしないつつましいタイピスト」ビュルストナー嬢、判事の愛人で執行官の妻の洗濯女、弁護士の看護婦-女中-秘書のレーニ、ティトレリの家の少女たち)。ところがこれらの増殖する系列の第一の性格は、他では袋小路になって塞がっていた状況を打開するということなのだ。
 カフカの作品には、二人組や三人組や頻繁に登場した。しかしそれらが混同されてしまうことはない。家族的起源をもつ主体の三角化は、表象された別の二項との関係において主体の位置を固定することによって成立する(父-母-子)。……この三角形のなかで子供は動けなくなり、空想にふけるのである。カフカはこの意味で、官僚的精神は家族教育からじかに出て来る社会的効果であるというのだ。……
 ……二人組であろうと三角形であろうと、それらが相互に帰着し浸透しあおうと、とにかく何かが封鎖されている。……際限のない長編小説によって解決される根本問題のひとつはまさに次のようなものだ。カフカの長編小説に常に存在する二人組や三角形は、実は冒頭に出現するだけである。そして初めから、それはあまりに不安定、あまりに柔軟で変形可能なので、それらはもろもろの系列にむけてみずからをすっかり開放する準備をしており、系列はもろもろの項を破裂させることによって、二人組や三角形の形式を破壊するのだ。しかし「変身」では、まったく排他的な家族の三角化が堂々と回帰してくることによって、妹も兄も封鎖されてしまうのだから、正反対のことが起きていたのだ。かんじんなことは、「変身」が傑作かどうかではない。確かにカフカの問題はそれでは解決されないのだ。彼が長編小説を書くことを妨げるのは何かということについても「変身」は巧みに語っているし、それはカフカ自身を意識していることでもある。彼にとって家族主義的な小説、あるいはカップルがテーマの小説、カフカ家の物語、田舎の婚礼を書くのは耐え難いことだった。ところがすでに『アメリカ』において、彼は増殖する諸系列という解決法を予感していたのである。『審判』において、『城』において、彼はそれをすっかり自分のものにしている。しかしそうなると長編小説が終わる理由はまったくなくなる(バルザックや、フローベールや、ディケンズのように書かないかぎりは。しかし彼らをいかに称賛しようとも、やはりそれはカフカが望むことではない。バルザック式の社会的でさえある系譜学も望まず、フロベール流の象牙の塔も望まず、ディケンズ風の「ブロック」も望まない。彼自身ブロックについて別の考え方をしているからである。……)。
 三角形を無制限に変形することによって、また二人組を際限なく増殖させることによって、カフカは、ある内在平面を切り開くのであり、これは解体、分析として作動し、彼の時代にはまだ扉を叩くものにすぎなかった力、社会的動向、勢力の診断として作動する(文学が意味をもつのは、ただその表現機械が内容に先行し内容を導くことによってである)。そしてある水準では二人組や三角形を経由する必要さえなく、中心人物が直接に増殖するのである。その例がクラムであり、もちろんKである。こうしてまさに諸項が逃走線のうえに配置され、隣接する切片にしたがってこの線のうえを移動する。警察の切片、弁護士の切片、判事の切片、聖職者の切片などがある。二重の、あるいは三角形の形態を失うにつれて、これらの項はもはや法の階層化された代表者として、明白に出現することはないし、また単にそのようなものとして出現することもない。そうではなくもろもろの項は、司法のアレンジメントの動因となり、密接に関連しあう歯車となり、それぞれの歯車は欲望の立場に対応し、あらゆる歯車と立場は、継起する連続性によって交通しあうのである。この点で「最初の尋問」の場面は典型的で、そこで法廷は、判事を頂点として、そこから右辺と左辺として発する両サイドという三角形の形態を失うことになり、同一の連続線上に整列されている。この線は単に二つの党派を「結合」しているのではなく、次のものを隣接させながら延長されるのだ。「金銭ずくの刑事、まぬけな巡査部長と予審判事、さらには上級の判事たちで、彼らにはたくさんの不可欠な下僕、書記、憲兵や他の補佐たちの一行、たぶん処刑人さえもついている」。そしてこの第一の尋問の後には、ますますオフィスの隣接構造が三角形の階層秩序にとってかわる。あらゆる官僚は「金銭ずく」であり「買収され」ている。すべてが欲望であり、あらゆる線が欲望である。権力をあやつり、抑圧に手をそめる者ばかりか、権力と抑圧を耐え忍ぶ被告にいたるまで(参照:被告人ブロック。「彼はもはや依頼人ではなく、弁護士の犬だった」)。ここで欲望を、権力の欲望として、抑圧し、さらには抑圧される欲望として、サディスムやマゾヒスムの欲望として受けとるのは明らかに誤りである。カフカの観念はそういうものではない。権力の欲望などというものはなく、権力自体が欲望なのである。欠如としての欲望ではなく、充溢、実践、働きとしての欲望があるだけであり、一番下っ端の役人に至るまでこの通りなのだ。ひとつのアレンジメントとして、欲望とは、機械のもろもろの歯車と部品、機械の力能と厳密に一体なのである。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
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