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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<夢の分子構造

「カフカは、自分の人生は夢に似ていると日記のなかに書いている。しかし、そのことは、彼が《うわのそら》で生きていたとか、朦朧たる芸術的世界をさ迷っていたということを意味するわけでは決してない。彼は夢のなかで生きるように生きる一方で、同時にまた、自分が書くとおりに夢を見てもいたのである。そうであるがゆえに、ある文学的ループが、彼の日常的現実と彼の夢幻的想像世界とを結びつけてやまなかったのである(そうはいっても、これはそう容易に行なわれることではないのだが)。……
 ……カフカにおける夢の作業は、精神分析でいう《平等にする注意》とはまったく別の仕方で行なわれる。そこには、逆に、特別の警戒、激しい知性と感性が要求される。フロイトにとって、夢のシーンはいかなる実際的な創造性にも適合しないものであったことを想起しよう。フロイトにとっては、夢は無意識の奥深い新賃代謝が記録されたものの表面にすぎなかった。夢は《コラージュ》によって、あるいは《カット・アップ》(ビート・ジェネレーションの時代には、そう呼ばれることになる)によって作動するのであり、夢の構成する新たな綜合は、一種の《セメント的固化》によって《凝固》状態に接合されたものである、というわけだ。そして、この凝固に一貫性を与えるもの、その象徴的解読の鍵──今度は構造主義から借用すれば──は、当然のごとく手に入らない。したがって、《コンプレックス》はつねに受動的なものにとどまる。それを把握しようとしたら、その外部にとどまっている意識の審級から再構築するしかないことになる。そして、その意味作用の制御は精神分析家にゆだねられる、というしだいである。精神分析家は、彼らがそこから受け取る転移的な刻印をもとにして、それを解読したり解きほぐしたりすることができる──少なくとも彼らはそう主張する──というわけなのだ。
 それに対して、カフカ的アプローチは、これとはまったく別の仕方で遂行される。まず第一に、《夢の特異点》を作動させることが重要である。カフカにとっては、フロイト的解釈が立ち止まる場所──フロイトが《夢の臍》と呼んだところ──から、すべてが始まる。カフカは、夢のなかの意味をなさない地点をある解釈学のくびきの下におきながら、それを増殖かつ拡大させつつ、いかなる構造的超コード化もほどこさないで、別の想像的構成、別の考え、別の人物、別の精神的座標を生み出そうとする。すると、そのとき、既成の意味秩序に敵対する創造的過程が打ち立てられる。それは突然変異的な主観性の生産の過程であり、そこには限りない豊富化をもたらしうる潜勢力がはらまれている。」
(フェリックス・ガタリ「カフカの六十五の夢」)
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