忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<デマゴギーズ2

「したがって、ここには小説的な機械状アレンジメントの新たな特性が登場しており、これは指標や抽象機械とは異なるものである。この特性は、カフカの解釈でも社会的表象でもなく、ある実験を、社会的政治的要綱を促している。問題はこうなる。アレンジメントは、現実において現実的に機能するとすれば、いかに機能するのか。それはどんな機能を成立させるのか(それから私たちが問うことは、アレンジメントは何から構成されるのか。その要素、その関係はどんなものか、ということだけだろう)。それゆえ私たちは、『審判』の手続きの総体をいくつかの水準でたどってみなければならず、最終章とされる文章の位置づけが客観的に不確実なことと、最後よりひとつ前の章「大聖堂にて」が、ブロートによって多少とも意図的に間違った場所におかれたことが確かであるということを考慮しなければならない。第一の印象にしたがえば、『審判』においてすべては偽りなのだ。カント的法とは反対に、法さえも虚偽を普遍的規則として屹立させる。弁護士は偽の弁護士であり、判事は偽の判事であり、「もぐりの弁護士」、「金銭ずくの不実な使用人」がいて、あるいは少なくとも彼らはあまりに卑小で、もはや代表されることもない本当の決定機関や「近づきがたい法廷」を隠しているばかりである。しかしながらこの第一印象が決定的でないとすれば、偽なるものの勢力が存在しており、真偽を基準にして正義を評価することは間違っているからである。だから第二の印象はずっと重要になる。つまり法があると信じられたところに実は欲望があり、欲望だけがある。正義とは欲望であって法ではない。実はみんなが正義につかえる役人なのである。単なる傍聴人だけでなく、神父や画家たち自身だけでなく、『審判』のなかに頻出するいかがわしい女や倒錯的な女の子までも。大聖堂でKの持っている本は、祈祷書ではなく、町の観光案内である。判事のかかえている本には猥褻なイメージしかない。法は猥本のなかに書き込まれている。ここで問題なのは司法がときに犯す誤謬ではなく、その欲望的特性なのだ。つまり被告は原則として非常に美しく、彼らの奇妙な美しさによって識別される。判事たちは「子供のように」ふるまい立論する。単なる冗談が弾圧を混乱させることもある。正義とは〈必然〉ではなく、反対に〈偶然〉であり、ティトレリは盲目の運命、翼をもつ欲望としてその寓意を描くのだ。正義とは安定した意志ではなく、落ち着かない欲望である。……若い女性たちがいかがわしいのは、司法体制の補佐の身分を隠しているからではない。反対に、彼女らは、ただひとつの同じ多義的な欲望で、同じように判事、弁護士、被告を楽しませるので、補佐していることがわかるだけだ。『審判』の全体が欲望の多義性につらぬかれ、そのせいでエロティックな力を得ている。抑圧が司法体制に属するのは、抑圧する側でも、抑圧される側でも、抑圧それ自体が欲望であるからだ。そして司法の権威は違法行為を追及する権威ではなく、犯罪行為に引きつけられ、巻き込まれる権威なのだ。権威者たちは、詮索し、捜索し、調査する。つまり彼らは盲目で、証拠など意に介することがなく、廊下でもめごと、聴衆のざわめき、アトリエでの内緒話、扉の向こうの雑音、舞台裏のささやき、つまり欲望とその偶発事を表現するミクロな出来事すべてにとりわけ関心をむけるのだ。
 …………
 したがって、法の超越性という観念は、これをかぎりに放棄しなければならない。もし最終的審級が近づきがたく、表象されないものならば、それは否定神学に固有の無限の階層秩序に関わるのではなく、欲望の隣接性に関わるのであり、これによって出来事はいつも隣のオフィスで起きるのである。つまりオフィスの隣接性、権力の切片性が、審級の階層秩序と支配者の威光にとって代わる(すでに〈城〉は、ハプスブルク家の官僚制や、オーストリア帝国のなかの国々のモザイク状に似て、切片的隣接的なあばら屋の寄せ集めであることがはっきりしてきた)。もし神父から小さな娘まで、みんなが司法体制に属し、みんながその手先であるとすれば、それは法の超越性のせいではなく、欲望の内在性のせいなのである。そしてKの調査あるいは実験は、たちまちこの発見に行き着くのだ。つまり訴訟を真剣に受け取るように、それゆえ、弁護士に会いに行き、次々超越性が出現するのに立ち会うように、叔父はKを強制するのだが、Kが気がつくのは、彼も誰かに代表してもらってはならず、彼に代理人は必要ではなく、彼と彼の欲望のあいだに誰も介在してはならないということである。彼が法廷を見出すのは、部屋から部屋へと移り動きながらでしかなく、欲望にしたがいながらでしかない。……この意味で『審判』そのものが終わりなき小説なのである。無限の超越性ではなく、内在性の無制限の領野。法の超越性は高いところのイメージであり、その写真であった。しかし裁判とは、むしろ逃走してやまない音(言表)のようなものである。法の超越性は抽象機械であったが、法とは、裁判の機械状アレンジメントの内在性のうちにしか実在しないものである。『審判』はあらゆる超越的正当化をバラバラに解体するのである。欲望のなかには何も審判すべきものはなく、裁判官自身が全身欲望のかたまりである。裁判は単に欲望の内在的プロセスである。プロセスそのものが連続体であるが、それは隣接性の連続体なのだ。隣接は連続に対立するものではない。逆なのだ。隣接とは連続の局所的な構築、無規定なまま延長可能な構築であり、それゆえ解体でもある。──いつも脇にオフィスがあり、隣りの部屋がある。バルナバスは「オフィス群のなかに行くが、ただ一部のオフィスに行くだけである。その向こうには壁があり、壁の背後にはさらに別のオフィス群がある。さらに遠くにまで行くことが特に禁止されているわけではない(…)。この壁を厳密な限界と思うには及ばない(…)彼が通り抜ける壁もあって、まだ彼が通り抜けていない壁と違う壁のようには見えない」。裁判とは、このような欲望の連続体であり、その限界は流動的で、いつも移動しているのだ。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R