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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<加速する失語症

「それならカフカのリアリズム的社会的解釈を擁護すべきだろうか。その通りである。なぜならそれは非解釈に限りなく近いからである。また神の不在よりも、マイナー文学の諸問題、プラハのユダヤ人の状況、アメリカ、官僚制そして大規模な訴訟について語ったほうがましだからである。たとえば『アメリカ』はまったく非現実的で、そのなかのニューヨークのストライキはあいまいにしか描かれないし、そこの過酷な労働条件は何の怒りもかきたてず、判事の選挙そのものも無意味に陥っている、などと批判される。私たちは、正しくもカフカにはまったく批判というものがない、ということを指摘しよう。「掟の問題」のなかでさえ、少数派は、法がただ「貴族」の恣意的な裁量によるものにすぎないとみなすだけで、少しも憎悪を表明せず、「どんな法も信用しないこの党派が、かなり脆弱で無力であり続けたとしたら、それは彼らが貴族を受け入れ、その存在権利を認めているからだ」。『審判』において、Kは法に反抗するのではなく、意図的に権力者や処刑人の側につく。彼は鞭で打たれているフランツを小突き、被告の腕を抱えて怖がらせ、弁護士のところではブロックを小馬鹿にする。『城』のなかでもKは、機会さえあれば好んで脅したり罰したりする。そういうわけで、カフカは「時代の批判者」などではなく、「批判を自分自身に向け」、「内密の法廷」以外の法廷をもちはしないと結論していいだろうか。それは見当はずれというものだ。なぜなら批判はこのとき表象の次元でしか考えられていないからである。それが外面的なものでないなら、当然それは内面的でしかありえないというわけだ。しかし問題は別のところにある。カフカは社会的表象から言表行為のアレンジメントを、そして機械状アレンジメントを抽出し、しかもこれらのアレンジメントを分解しようとする。すでに動物をめぐる短編小説で、カフカはもろもろの逃走線を引いていたのであるが、彼は「世界の外に」逃走したわけではなく、むしろ世界とその表象を逃走させ(管から水が流出するという意味で)、これらの逃走線上に引っ張っていったのである。かんじんなのは、コガネムシのように、クソムシのように話し、見ることであった。なおさら小説においては、アレンジメントの解体は、「批判」よりもずっと効果的な仕方で社会的表象を逃走させ、世界の脱領土化を引き起こすのであり、この脱領土化はそれ自体政治的であり、アンティミスト〔親密派〕な実践とは無関係なのである。
 …………
 ……長編小説の対象としての機械状のアレンジメント……アレンジメントは、組み立てられる最中の、神秘的機能をもつ機械として意義をもつわけではなく、機能しない、あるいはもはや機能しないであろう組み立て済みの機械として意義をもつわけでもない。アレンジメントは、それが機械と表象に対して行う解体によってはじめて意義をもつのであり、現勢的に機能しながら、自分自身の解体によって、解体においてのみ機能する。アレンジメントはこの解体から生じるのである(カフカを引きつけるのは、決して機械を組み立てることではない)。この積極的な解体の方法は、批判によるものではない。批判とはまだ表象に属するものである。むしろこの方法はすでに社会野を横断する運動そのものを拡張し加速することである。それは、現勢的ではないがすでに現実的な、ある潜在的なものにおいて作動するのである(さしあたってドアをノックするにすぎない未来の悪魔的勢力)。アレンジメントは、まだコード化されている領土的な社会的批判のなかではなく、脱コード化、脱領土化、そしてこの脱コード化、この脱領土化の小説による加速化において発見される。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
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