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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<透明な深淵2

「ミレナの名前に関する二つの想起のあいだには、ある差異が、いわばまったく相対的で微妙な差異があるようだ。ひとつはまだ幻想的タイプの外延的な形象化された場面に結びつき、ふたつめは、すでにもっと強度的で、名前そのものに含まれる強度の閾としての落下や飛躍を強調している。まさに、意味が積極的に無化されるときには、そういうことが起きているのだ。ヴァーゲンバッハがいうとおりである。「単語が支配力をもち、じかにイメージを生み出す」。しかしこの過程をいかに定義しようか。意味からはただ、逃走線を導く何かだけが生きのびるのだ。そこには本来の意味にしたがう何かの指示も、比喩的な意味にしたがうメタファーの指定もないのである。しかしイメージとしてのモノは、もはや一連の強度状態を、純粋な強度の階梯あるいは行程を形成するにすぎず、これらを人は何らかの方向に、上から下へ、下から上へ走りぬけることができるだけだ。イメージとはこの走行そのものであり、まさに〈なること〉になったのである。人間が犬になること、犬が人間になること、人間が猿に、甲虫になること、あるいはその逆等々。私たちはもはや、たとえば犬という語が直接にある動物を指示し、メタファーによって別のものに適用される(「犬のように」と言ったりできる)という、通常の豊かな言語の情況のなかにあるのではない[*13]。一九二一年の日記、「メタファーは文学において僕を絶望させるもののひとつだ」。カフカは徹底してあらゆるメタファー、象徴性、意味作用、さらには指示作用を抹殺するのである。変身(メタモルフォーゼ)はメタファーの逆なのだ。もはや本来の意味も、比喩的な意味もなく、語のひろがりにおける様々な状態の配置があるだけである。もはやどんなものも、それぞれの逃走線にしたがって脱領土化された音あるいは語が走りぬける強度にほかならない。問題は、ある動物の行動と人間の行動が似ていることではないし、駄洒落など問題外である。もはや人間も動物もないのは、流れの連接において、強度の可逆的な連続体において、それぞれが他のものを脱領土化するからである。かんじんなことは、反対は強度の差異として最大の差異を、閾の通過、上昇や落下、下降や屹立、語のアクセントなどを内包する生成変化〔なること〕なのである。……
 …………
 ……自分の言語において多言語主義を採用すること、自分の言語のマイナーな、あるいは強度的な使用法を見出すこと、この言語において制圧されてきた特性を、制圧者の特性に対立させること、一つの言語が脱走し、動物が移植され、アレンジメントが連結される非文化、未発達の地点を、言語にとっての第三世界地帯を発見すること。たとえささいなものでも、なんと多くの文学の文体、ジャンル、あるいは運動の夢が、ただひとつにきわまることか。つまり言葉のメジャーな機能を実現すること、国家言語、公的言語として奉仕することなのだ(今日の精神分析はシニフィアン、メタファー、駄洒落のマスターであろうとしている)。真逆の夢を見ること、〈マイナーになること〉を創造しうること。……

[*13]カフカの研究者たちの解釈はこの点に関しては、メタファーを基準にしているので、なおさら嘆かわしいものだ。たとえばマルト・ロベールは、ユダヤ人は犬のようだということを想起させる。あるいはさらに「食うや食わずの芸術家が主題になることがあるが、カフカはこれを断食のチャンピオンにしたてあげる。あるいは居候なら、巨大な寄生虫にしたてあげる」。この文学機械の発想はあまりにも単純なものに見える。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
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