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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<文学者と呼ばれる部族

「心的空間を条理化する古典的思考像は自分の普遍性を主張する。実際それは二つの「普遍概念」を用いて条理化を行なうのである。すなわち、存在の究極の根拠としての、あるいはすべてを包括する地平としての〈全体〉と、存在をわれわれにとっての存在に変換する原理としての〈主体〉であり、要するに帝国と共和国である。「普遍的方法」の指揮下で〈存在〉と〈主体〉という二重の観点から、条理化された心的空間にあらゆる種類の実在と真理が位置づけられるのである。とすれば、そのような思考像を拒絶して別なやり方で思考しようとする遊牧的思考を特徴づけるのは容易であろう。つまり遊牧的思考は、普遍的思考主体を要請する代わりに特異な人種を要請するのであり、また、包括的全体性に根拠を置く代わりに草原、砂漠、海といった平滑空間としての地平なき環境に展開するのである。ここで、「部族」として定義される人種と「環境」として定義される平滑空間とのあいだに成り立つ関係は、「主体」と「存在」のあいだのそれとはまったく別な型の適合性である。つまり、包括的「存在」の地平にある普遍的主体ではなく、砂漠にいる一つの部族なのである。最近ケネス・ホワイトは、部族としての人種(ケルト人または自分をケルト人と感じている人々)と環境としての空間(ああ、東洋、東洋よ、ゴビ砂漠よ……)との非対称的な相補性を強調している。ホワイトはケルトと東洋の婚姻というこの奇矯な組み合わせが、英文学を誘導するとともにアメリカ文学を作り上げた本来的意味での遊牧的思考をどんなに鼓吹したかを明らかにしたのだ。以上のことからこうした試みにつきまとう危険あるいは深刻な両義性がただちに察知されるだろう。あたかも創造の努力や試みはそのつどそれ自身が陥りかねないおぞましさに直面するように思われるのである。というのも、人種という主題が、包括的な支配を目指す人種差別やファシズムに、あるいはもっと単純に貴族主義や党派主義や復古主義といったミクロ・ファシズムに転化しないようにするにはどうしたらいいのか? 東洋という極が妄想に変質し、別のファシズムのあらゆる形態を、そしてヨガや禅や空手などのあらゆる民俗現象を再活性化することを妨げるにはどうしたらいいのか?──こうした問題に直面せざるをえないのである。東洋に実際に旅行したからといってそれでは妄想を避けるのに十分ではないし、現実的または神話的な過去を持ち出しても人種差別を避けることはできない。しかし、ここでもまた、人種という主題と人種差別を区別する判別の基準は、たとえさまざまな時と場合によって両者が混交し基準が曖昧になることがあるにしても、明快に指摘することが可能である。その基準とは、部族としての人種は抑圧された人種としてしか、またそれがこうむった抑圧の名においてしか存在しないということである。つまり支配的である人種など存在しないということ、人種は劣等人種、少数派人種としてのみ存在するのであって、一つの人種は純血によってではなく、逆に支配体系がそれに与える不純さによって定義されるものであるということである。雑種と混血こそは人種の真の名なのだ。この点についてランボーは言うべきことをすべて言っている。次のように言う者だけが人種を引き合いに出す権利を持っているのだ。──「俺は常に劣等人種に属していた、(……)俺は永遠の昔から劣等人種の一員だ、(……)俺は今アルモリカの砂浜にいる、(……)俺は獣であり黒ん坊なのだ、(……)俺は遠い昔の人種に属している、俺の祖先はスカンジナヴィア人であった」。人種は自分の起源として見つけ出すべきものではないし、東洋は模倣すべきものではない。東洋は平滑空間を構築することによってしか存在しないし、人種は、平滑空間を満たし横断する部族を構成することによってしか存在しないのだ。およそ思考というものは、〈主体〉の属性と〈全体〉の表象ではなく、生成変化であり、しかも二重の生成変化なのである。」
(ドゥルーズ+ガタリ「遊牧論あるいは戦争機械」)
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