忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<人間未満3

「目的は「写真」を拡大すること、不条理なまでに膨張させることなのだ。父の写真は法外なものになり、地理的、歴史的、政治的世界地図に投影され、その膨大な地域を覆うことになる。「生きのびようとすれば、あなたが覆ってしまわない地域、あなたの影響が及ばない地域だけが、私の住めるところのようです」。宇宙のオイディプス化。父の名前が歴史上の名称を、つまりユダヤ人、チェコ人、ドイツ人、プラハ、都市と田舎を超コード化する。しかしこうしてオイディプスを拡大するにつれて、このように顕微鏡的に拡大することによって、父は正体を露わにし、分子的な動揺となって、まったく別の戦いがそこに繰り広げられる。父の写真を世界地図に投影することによって、写真につきものの袋小路が開放され、袋小路の出口が見つかり、それを地下の巣穴全体と、またこの巣穴のあらゆる出口と連結させたのである。カフカがいうように、問題は自由ではなく出口なのだ。父の問題とは、父からいかに自由になるかではなく(オイディプス的問題)、父が見つけなかったところに、どうやって一つの道を見出すかである。父と息子に共通の無罪、共通の苦悩という仮説は、それゆえに最悪のものである。……要するに神経症を生むのはオイディプスではなく、神経症のほうが、つまりすでに服従して、自身の服従の姿勢を伝染させようとする欲望のほうが、オイディプスを生み出すのである。オイディプスとは神経症の商品価値なのだ。逆にオイディプスを拡大し、膨張させ、誇張し、倒錯的またはパラノイア的使用法を見つけることは、すでに服従状態を脱し、頭をもたげ、父の肩越しに、この出来事においていつもほんとうに問題だったのは何かを見ぬくことにつながる。問題はつまり欲望のミクロ政治学、袋小路と出口、服従と矯正といったことである。袋小路を開放することは、それを開通させること。オイディプスのうえと家族のなかに再領土化するのではなく、世界のなかでオイディプスを脱領土化すること。そのためには不条理なまでに、こっけいなほどに、オイディプスを拡大し、「父への手紙」を書かなければならなかった。精神分析の誤謬とは、その袋小路にはまり、私たちをそこに閉じ込めるということで、それは精神分析自体が神経症の商品価値によって生きのび、そこからあらゆる剰余価値をひきだしているからである。「父に対する反抗とは喜劇であって悲劇ではない」。
 …………
 ……劇的な拡大は、二重の効果をもたらす、一方では家族の三角形(父-母-子供)の背後に、それよるはるかに能動的な別の三角形がみつかり、家族そのものがそこから勢力を借用し、服従を伝染させ頭を下げる使命、頭を下げさせる使命を借用するのだ。なぜなら子供のリビドーがはじめから備給するのは、まさにそれだからである。つまり家族の写真を通じて、世界地図全体に備給しているのだ。ある場合は、家族の三角形の項のひとつが、別の項によって置換され、これだけで家族全体が非家族化することになる(たとえば家族経営の商店は、父-従業員-子供を舞台にのせ、そこでは子供は最下位の従業員の味方になって取り入ろうとする。あるいは「判決」で、ロシアの友人は三角形の一項の位置を占め、それを裁判や処罰の装置に変えてしまう)。別の場合には三角形全体が形態と人物を変更し、司法的、経済的、官僚制的、あるいは政治的といった性格をあらわに見せるようになる。『審判』において父は型通りの存在ではなくなり、判事-弁護士-被告がそういう性格をもつようになる(あるいは叔父-弁護士-ブロックのトリオは、ぜがひでもKが訴訟をまじめに受けることを望むのだ)。そしてトリオは、銀行員、警察官、判事などとして増殖する。……したがって、あまりにもよくできた家族の三角形は、まったく別の性格をもつ様々な備給のための導入にすぎなかったのであり、子供はそういう備給を、父の背後に、母のなかに、自分自身のなかにたえず発見するのだ。判事、警視、官僚などは父の代理ではなく、むしろ父のほうがあらゆる力を凝縮したもので、父自身はそれに服従し、息子にも服従をうながしている。家族には扉があるだけで、はじめからその扉をもろもろの「悪魔的な勢力」がノックし、恐ろしいことに、ある日、なかに忍び込もうとほくそえんでいるのだ。……
 いっぽうでオイディプスが喜劇的に肥大し、つぶさに見ると別の圧政者たちの三角形が見え始めるにつれて、同時に出現するのは、そこから逃れる出口の可能性であり、ある逃走線なのだ。「悪魔的勢力」の非-人間性に、「動物になること」の下-人間性が応答する。頭を下げて官僚や判事、判事や被告であり続けるよりは、甲虫になること、犬になること、猿になること、「まっさかさまに転落しながら逃走すること」〔「あるアカデミーへの報告」〕。ここでもやはり子供たちは、みんなこういう逃走線、こうした〈動物になること〉を構築し、体験するのだ。生成変化としての動物は、父の代理とも、原型とも無関係である。なぜなら父は田舎を去って都会に落ち着くユダヤ人として、おそらく真の脱領土化の運動にとらわれたからである。しかし彼は家族において、商売において、彼の服従や彼の権威の機構において、たえず再領土化するのだ。原型というものは精神的再領土化の手法である。動物になることは、まったく反対で、少なくとも原理的には絶対的脱領土化であり、カフカによってたくまれた砂漠的世界に下降する動きなのだ。……動物になること、それはまさに運動を実行すること、まったくの肯定性とともに逃走線を描くこと、閾を超え、それ自体にとってだけ価値をもつ強度の連続体に到達すること、純粋な強度の世界を見出すことであり、そこではあらゆる形態は分解し、あらゆる意味作用、シニフィアンとシニフィエも分解して、形式化されない素材、脱領土化した流れ、非有意的な記号が優先するのだ。カフカの動物たちは、神話とも原型とも無縁であり、ただ踏み越えられた勾配、解放された強度のゾーンに対応するだけであり、このゾーンにおいて内容はその形態から解き放たれ、同じく表現はそれ自体を形式化するシフィニアンから解き放たれる。もはや孤独な物質における運動、振動、閾があるだけである。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R