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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<形相-質料 vs. 模様-媒体

「やはりアレンジメントの観点から見ると、道具と記号のあいだには本質的な関係がある。というのは、道具を定義する労働モデルは国家装置に所属しているからである。しばしば指摘されてきたように、原始社会の人間たちは、たとえ彼らの活動が非常に制約され規則化されているとしても、厳密な意味では労働するとは言えない。戦士に関しても同じことが言える。技術的要素は、領土から抽出されて大地を対象とするとき道具になる。しかし、それと同時に、記号は身体に記入されることをやめ、動かない客体的な物質の上に書かれることになる。労働が存在しうるためには、国家装置による行動の捕獲と文字言語による行動の記号化が必要なのだ。記号と道具、文字記号と労働組織がアレンジメントとして親和性を持っているのはこのためだ。武器については、事情はまったく別で、武器は宝飾品と本質的な関係を持つ。われわれにはもはや宝飾品がなんであるかがよくわからなくなってしまっている。それほど宝飾品は二次的な適用をこうむっているからである。だが、金銀細工品はかつては「野蛮な」芸術であった、あるいは、それがすぐれて遊牧民の芸術であったと聞くとき、そしてマイナー芸術のあの傑作の数々を目の当たりにするとき、われわれの魂のなかで何かが目覚めるのだ。装飾を施した服の留め金、金銀の小板、数々の宝飾品、それらはすべて小さな動かしうる物体であるが、単に運搬しやすいだけでなく、何か動くものに所属して初めて意味をもつようなものである。あの数々の小板は、それ自体動きうるものであり、動いているものの上で、純粋な速度の表現特徴を構成し、〈形相-質料〉の関係ではなく、〈模様-媒体〉の関係で把握されるべきものである。もはや大地は地表にすぎない、いや地表すらも存在しない、媒体は模様と同じほど動的なのだから。あの金銀の小さな板は色彩に光の速度を与え、金に赤みをおびさせ、銀を白い光と化す。それらは、馬具、剣の鞘、戦士の衣服、武器の握りにつけられ、一度しか役に立たない弓矢さえ飾っている。それらを作るために払われた努力や労力がいかほどであろうとも、それらは純粋に動くものにかかわる自由活動によって作られたものであって、重力や抵抗や消耗に結びついた労働の結果ではない。移動する鍛冶師は金銀細工を武器に、また逆に武器を金銀細工に結びつける。金と銀は他にも多くの機能をもつことになるが、戦争機械のこうした遊牧民的貢献を無視しては十分に理解されないであろう。この場合、金銀は物質ではなく、武器と親和性を持った表現特徴なのだ(戦争に関する神話は金銀細工品にしばしば見られるだけでなく、それらが製作された積極的要因ですらある)。宝飾品は武器に対応する情動であり、武器と同じ速度ベクトルに巻き込まれるのである。
 金銀細工品、宝飾品、装飾模様、そして単なる飾りも含めて、これらは、文字言語に劣らない抽象力をもっているにもかかわらず文字言語を形成しない。ただこの抽象力は別様にアレンジされているのである。」
(ドゥルーズ+ガタリ「遊牧論あるいは戦争機械」)
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