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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<透明な深淵3

「カフカが要求する全的な無一物は、どこよりも言語の領域において著しい結果を生むが、それは容易に理解できる。というのは、ここでは探究の対象であり道具である言語は、真実を隠匿するものであり、真実を伝達または覆い隠し、真実に奉仕または裏切るものだから。まずこの無一物は、すでにそれ自体で芸術家の現状を歪める一切の抒情詩的表現様式を厳密に排除する。カフカは民衆全体の欲求や憧憬に答えるような歌を書いた古代詩人の一人ではない。世界のさなかに孤立した今日の作家なのである。そこでは文学はかなり以前から明確な機能を持たず、したがって責任も委託もなく、役立たないという理由から自由である。だから彼は歌えない。……
 一切の抒情を彼に禁ずる一般的な理由のほかに、カフカには個人的な動機があったから、表現手段をきわめて厳密に節約した、簡素な散文に終始する。実際、彼の場合は作家の条件の矛盾、曖昧さ、まやかしを極限化するので、他の人々であれば体の不調程度であるものが彼にとっては重病となり、作品ばかりか、普段の言葉の使用にまで影響を及ぼすのである。およそ作家は今日、任務も明確な身分も持たぬ孤立した個人であるが、それでも他の人々は、共通の土地、言語、過去、未来によって結ばれる人間の一集団に加わっている。ところがカフカは故国では他国者であり、彼の話す言葉は他の土地で生まれたものであって、いわば横領する財産である。その言葉が好きでも(「国語は永遠の恋人です」とある日、語っている)、彼は全く自由に使うのでなく、気がねし、疑い、ためらいがちに使う。歴史的には、彼のドイツ語はまったく生きた言語とはいえないで、抽象的な、同時に書物の上の言語であり、ドイツやボヘミアばかりか、東欧のユダヤ文化にも無縁な、領土も社会的背景もないプラハ在住のユダヤ人の小さいグループの言語である。この言語は限られた使用により枯渇し、その主要な効力はいわば行政的であるが、カフカには正当な所有者という実感がなく、ただ暗黙の了解で大目に見られた賓客、招待客という感じがして、だから極度に控え目な態度を取らざるをえない。……
 正確でありたいという極端な欲求が命ずる非妥協的態度から、カフカは自らの言語をひたすら放棄と自制によって創造する。ドイツ語の横領者にならないために、いわば二つの方面で自己を制限する。というのも、その自由な開発が詩人の基本的権利である言葉の資質ばかりでなく、小説家が心理的ニュアンス、地理的、社会的相違、形態上のコントラスト、つまりいわゆる人生の色彩と動きを表現するために当然汲みあげる生きた散文も彼は放棄するのだから。ここから彼の文体の模倣しがたい特質が生じる。すなわち純粋で中性的であり、稀語も新造語もなく、ドイツ語が本来好む創造的な言葉の結合を退け、しかしまた色彩と変化に欠ける(この単調さの諷刺は『審判』の画家ティトレリの芸術に見られる。画家はいつも同じ空と同じ灰色の木のある同じ荒野の風景を描いている)。よく指摘されるように、カフカの作中人物はみな一様な言語を話し、個々の社会的状況、習慣、気質については何もうかがえない。一人としてけちな者、臆病な者、情熱家、教養のある者、粗野な者はいない。みなごく平均化されているから、恋する男が無関心な男と同じ話し方をする。下端の執事が最高位のお偉方と同じ語調、同じ語彙、同じ話し振りを示す。部屋係の女中、若い下女、さらに子供(たとえばハンス少年)が小説中の知識人やK自身と同様に、明確に、文法的に正しく、抽象への適性を示しながら自分の考えを表現する。ありありと目に浮かぶような言回し、感情的な言葉癖、方言や隠語のニュアンス、日常会話のぞんざいさといった一切のものが、この言葉の宇宙では通用しない。……
 したがって実際、カフカは言葉に関して二重の禁欲を実行し、彼の進展につれてその厳しさがますます彼の文体に刻まれるのである。青春時代の著作には、まだ詩的な言葉、豊富な隠喩、思いがけない言葉の形成のようなものが見られるが、成年期の物語や三篇の小説には、彼が内部で戦ったこれらの抒情詩的傾向の名残りしか留めておらず、わずか数篇の、ほとんど散文詩に近い短い文章にだけ、この根強い抵抗の裏付けがあるにすぎない。『城』や晩年の物語(『家』、『歌姫ヨゼフィーネ』など)においては、約十年前に始まった純化の作業(一九一二年の『判決』の時期と考えられる)がかなり推し進められていたから、ごく稀れな隠喩が孤立しているだけにかえって目立つほかは、この作業をさらに及ぼしうる所はもう見当らない。『城』を通じてかろうじて指摘できるのは、二、三のイメージに富んだ文章(なかでもKとフリーダの抱擁の話)、いくつかの詩的な比較(Kの夢想がながく楽しむクラムと鷲との比較)、孤立した文飾、しかもそこでは隠喩がそれ自体への嘲笑を意味する文飾(「お役所の決定は、若い娘のように煮えきらない」)などである。その他の部分では、小説は一切の感動を純化した、中性化した言葉で書かれており文章の豊かさとしなやかさによってのみ美しく、単語の仮借ない厳密さによって魅惑する。正確さのために、飾りを拒否し、そこから自分の優雅さを得ている言葉である。
 この禁欲は、カフカがそれによって作中人物を得る実験的還元と同じ意味を持っている。それは、直接の手段では把握できない、曖昧な、個人的な状況をまず対象とする一種の公正証明である。事実、このような状況の特性は、率直な説明のあらゆる可能性を──他の場合には、孤独の対抗策であるべき可能性を──除去することにある。かりにカフカがそこから悲痛な嘆きを取り出し、他人の興味と同情を得る目的のために、その状況を率直に述べることによって自分を理解させることができるならば、彼の状況は半ば解決されるであろうが、しかしまた、それを語ることはたちまち滑稽でまやかしとなろう。そこで彼は、その状況を沈黙に委ね、状況が彼に課す厳重な制約を通じてそれを呼び戻すだけで我慢する。……
 ……カフカは特殊な意味論によって知覚させる。それはどんなに単純な状況に適用されても、いたるところに神秘と両義性を創り出す特殊な意味論である。《城》、《村》、《助手》、《お偉方》の単語はそれ自体全く明白であるが、カフカはこれを文法上、限定詞も補語もない絶対的意味に使うから、これらの基本語の一つ一つが謎の出発点となる。なぜなら、その単語が「どこで、だれに、いつ、なんのために」という、お偉方の絶対主義に忠実なテキストが規則通り未定のままにしている問いを促すからである。さらに、現代の状況を間違いなく記述する同じ単語(「城には電話がある」)が原義の高尚な強い意味にあくまでも使われるので、転ずると必然的に誤解を招くことになる。小説の文脈のなかでは、鍵語(こう呼べるとすれば)が二重の意味、一つは現代的で弱い意味、もう一つは古く強い意味を持ち、両者はたえず肯定し合い、たえず反発し合う。カフカにとって、城はもちろん特権階級の居住地であるが、しかしそれに劣らず明白に語源の定義する場所、つまり閉ざされた地区でもある(Schloss──geschlossen)。お偉方はブルジョア的意味での紳士であるが、主人や領主でもある(Herren)。助手たちは選択によって、中世的意味での仲間であるか、現代的意味での使用人である(Gehilfen)。使者(der Bote)のバルナバスはどうかといえば、〔真理の〕使者、走り使い、普通の郵便配達人のいずれでもあるようにとれる。なぜなら、彼の仕事ぶりを考察するかぎり、手紙を運ぶのが彼の主な使命であるから[*62]。この意味の変化は、人物や事物や場所がそれぞれの階層的な位置や個々の価値に関係なく、いかに異常な品格を帯びるかを説明してくれる。村の二軒の宿屋は単なる宿屋で、それ以上の何物でもない。Kは宿屋の正確な機能を少しも思い違いしないが、カフカが宿屋に関することなら何でも、大きな尊敬と厳粛な態度で取り扱うので、読者は最初にその単語を聞いた時から、測り知れない権力を無意識に仮託するのである。もちろんこの建物のどこにも、そのような尊敬に価するものはなく──豪華さとか行届いた整頓とかで敬服させるものがないばかりか、汚なく、あまりはやっていない。「紳士荘」は村の遊郭であり、そこで橋屋の〈女将〉が相当怪しげな役を果たしている──、領主の鷹揚さ、美観、礼儀正しさを連想させる〈Hof〉(館)の古義を除けば何もない[*63]。……

[*62]注目すべきことに、翻訳では、現行の意味でも十分適当である時でさえ、一般に古い高貴な意味が選ばれることである。おそらくこの選択は審美的理由によるのであろう(「使用人」、「配達人」より「助手」、「使者」の方が美しい)。しかしまた、これはカフカが読者を迷妄から覚ますためにあちこちで作り出す実験的幻覚の力を証明している。
[*63]ドイツ語では、王室的意味から現代の商業主義的意味への移行は極端に著しい。同じ語が宮廷とホテル(Hof)、小姓とボーイ(Page)、紋章と看板(Schild)を指示する。」
(マルト・ロベール「最後の使者」)
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