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Lubricate us with mucus. ──2nd season 人間将棋編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<未来への脱出口3

「欲望あるいは法のこの二つの状態〔パラノイア的で超越的/スキゾ的で内在的〕を、私たちはいくつかのマイナーな水準で発見することができる。その二つが共存する状態を強調しなければならない。なぜなら私たちは前もって、こちらには悪しき欲望が、あちらには善き欲望があるというふうには言うことができないのだ。欲望とはまったく切片的なスープやお粥のようなもので、官僚制やファシストの断片などでさえも、やはり、あるいはすでに、革命的な動揺のなかにある。ただ運動の中でだけ欲望の「悪魔性」とその「潔白性」を区別することができる。なぜなら一方は他方の根底にあるからである。なにひとつ前もって存在しているわけではない。カフカは、無批判の力ゆえに危険なのだ。私たちに言えることはただ、互いのうちに取り込まれる二つの運動があるということである。一方は大きな悪魔的アレンジメントのなかに欲望を捕獲し、ほとんど同時に下僕や犠牲者、指導者や従者をまき込み、人間の大規模な脱領土化を実現するが、オフィスや監獄や墓地のなかのことでしかないとしても、この脱領土化は人間を再領土化する運動でもある(パラノイア的法)。もう一つの運動は、あらゆるアレンジメントを通じて欲望を逃走させるもので、あらゆる切片に接触するが、どれにも取り込まれることがなく、脱領土化の勢力の潔白性を、たえずより遠くに移動させる。脱領土化は出口と同じことである(スキゾ的法)。だからこそカフカの「主人公たち」は、大規模な機械に対して、アレンジメントに対して、実に奇妙な立場を獲得している。その立場によって彼らは他の人物と区別されるのだ。「流刑地にて」の将校は、機械工として、次には犠牲者として機械のなかに入るし、また長編小説の多くの登場人物は何らかの機械的状態に所属し、その外に彼らの存在はない。反対にKと、彼の分身である何人かの人物は、いつも機械に対して一種の隣接状態にあり、いつも何らかの切片に接しているが、それでいていつも遠ざけられ、外に置かれ、ある意味ではあまりに敏速で、それらに「取り込まれる」ことがない。『城』におけるKがまさにそうだ。切片的な城に対する常軌を逸した彼の欲望。まさに欲望には前もって指標など存在せず、その外部的位置は妨げられることがなく、それによって欲望は近接性の線そのもの上を滑っていくのだ。スキゾ的法とは近接性にほかならない。同じように、『城』においてバルナバスという使者はKの分身のひとりであるが、私人として使者であるにすぎず、伝言を受けとるにあたっては実に素早いにちがいないのだが、同時にこの速さのせいで、彼は公的業務から、切片的な重さからも排除されているのだ。同じように、『審判』においてKの分身のひとりである〈学生〉は公の執行官を先回りして、執行官が伝言をもっていく間に執行官の妻を奪ってしまうのだ(「私は大急ぎでもどったのですが、学生は私よりもずっと素早く動いていたのです」)。ふたつの運動のこのような共存、欲望の二つの状態、法の二つの状態は、決して躊躇を意味しているのではなく、むしろ内在的な実験を意味しているのであって、これはあらゆる超越的指標を欠いたまま、欲望の多義的要素を明確にする。「接触」、「隣接」はそれ自身が積極的連続的な逃走線なのである。
 この諸状態の共存は「夢」というタイトルで発表された『審判』の断片に明白に表れている。まず滑走または脱領土化の素早い快活な運動があり、それはすべてを近接状態におき、夢想家がそれでも苦境に陥ってしまうときも、大気中に野放図な形態を放出して完結するのである(「そこにあるのは実に人を惑わせるように蛇行する錯綜した数々の通路であったが、彼は完璧にバランスをとり、早い流れに乗るようにして、それらの一つのうえを滑降するのであった」)。他方では、次のような通路、素早い切片もまた存在して、次々と夢想家の死をもたらす再領土化を実現する(遠くの塚──突然すぐ近く──墓掘り人たち──突然の芸術家の登場──芸術家の当惑──墓の上の芸術家の文字──地面に穴を掘る夢想家──彼の墜落)。おそらくこの文章は、『審判』の偽の終わり、硬化した切片のうえでのKの死にいたる再領土化、「切りだされた石」を明らかにしている。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
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