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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<人物と境遇 vs. 機械

「欲望する生産は、それが表象から引き出されれば、逃走〔漏出〕線に沿って発見されることになるという必然性が確かに存在しているが、一切を複雑にしていることは、このことが、精神分析がそう思いこんでいるのとは全く別のことを意味しているということである。欲望の脱コード化した種々の流れは、欲望する諸機械の自由なエネルギー(リビドー)を形成している。欲望する諸機械が形をとって現われ始めるのは、表象の諸領域を貫き器官なき身体にまで達する脱土地化の接線の上においてである。出発して〔表象を〕去り、逃走〔漏出〕せよ。しかもたえず逃走〔漏出〕を引き起こさせながら……。……しかし、欲望する生産の脱コード化し脱土地化したこうした流れは、どうして何らかの表象の土地の上に折り重ねられないですむであろうか。またこうした流れは、たとえ器官なき身体の上であろうとも、どうしてそこになおそうした表象の土地を形成しないでおくであろうか。器官なき身体といったものは、究極的には表象とは無関係な土台なのではあるが。「出発し去ってゆくこと」を最もよく知っているひとびと、このことを生死と同じほど自然なこととしているひとびと、非人間的なる性の探求に没頭しているひとびと、つまり、ロレンスやミラーでさえ、どこか遠いところに、なお人間の形態をおびたファルス表象を形成する土地を打ちたてている。オリエントが、メキシコが、あるいはペルーが、そうした土地になっている。……われわれは、錯乱〔妄想〕の二つの極を──分裂症の分子的逃走線と、パラノイアのモル的備給とを、予め区別しておいた。ところが、まさしく、倒錯の極がまた、分裂症の極に対立している。これは、ちょうど、種々なる土地の再構成が脱土地化の運動に対立している事態に対応している。最も狭い意味での倒錯が、極めて特有なある型の再土地化を人工物の中に実現するものであるとすれば、その広い意味での倒錯とは、あらゆる型の再土地化を含んでいるもののことである。つまり、たんに人工的な再土地化ばかりではなくて、外来の、時代遅れの、残存の、私的な等々といった再土地化を。こうして、倒錯としての、オイディプスと精神分析とが登場することになる。……脱土地化の運動は、それ自身においては決して把握されえない。把握されるのは、土地の諸表象に対比されるその運動の指標のみである。夢の例を取りあげることにしよう。そうだ。夢はオイディプス的である。これについては、何の驚くべきこともない。何故なら、睡眠や悪夢の脱土地化に比較すれば、夢は倒錯した再土地化であるからである。……ところが、幻想や錯乱〔妄想〕においてそうであるように、夢の只中においては、種々の機械が、脱土地化の諸指標として作動しているのだ。夢の中には、奇妙な特性をそなえた種々の機械が常に存在しているのだ。手から手へと移動し、逃走〔漏出〕するかと思えば流通を惹き起し、運び去るかと思えば運び去られる、といった奇妙な特性をそなえた諸機械が。両親の交接の飛行機、父の自動車、祖母のミシン、小さい弟の自転車、voler の二重の意味〔飛ぶと盗む〕での vol の一切の対象……。機械は、家庭の夢においては、常に地獄のすさまじさをそなえている。この機械は、種々の切断と流れとを導入することになるが、これらの切断と流れとは、夢が自分の舞台に閉じこもり、自分の表象の中で自分の体系を作ることを妨げるものなのだ。如何ともし難い無意味の因子は、別のところや外部へと発展すべきものであるが、地獄のすさまじさをもつこの機械は、実在するものそのものの種々の連接の中でこの無意味な因子をうまく働かせるものなのだ。ところが、精神分析は、オイディプスに固執しているために、この無意味な因子をうまく説明することができない。じじつ、再土地化は人物や境遇に基づいて行われるのであるが、しかし脱土地化は機械に基づいて行われるからである。シュレーバーの父は種々の機械を媒介にして行動しているのか、それとも逆に、種々の機械がこの父を媒介にして作動しているのか。精神分析は、再土地化の働きをする創造的象徴的な種々の表象表現〔表象し代表するもの〕に執着しているが、これに対して、分裂者分析は、脱土地化の機械的諸指標を追い求めているのである。」
(ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』)
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