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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<無意識の地勢図

「カフカは、知られざる超越的法をめぐる不連続なブロックあるいは離れた断片の原理を放棄することがない。どうして放棄することができようか。それはたとえ見せかけでも世界の一状態であり(それに天文学とはいったい何だろうか)、またこの状態はまさに彼の作品の中で機能するからである。しかし私たちは、別の性格をもち、長編小説の発見に対応する構築を、これに付け加えなければならない。こうしてKはますます帝国の超越的法が実は内在的な法廷に、法廷の内在的アレンジメントに帰することに気づくのである。パラノイア的法は、スキゾ-法に場所を譲る。見せかけの無罪放免は、無期限の延期に場所を譲る。社会野における義務の超越性は、社会野全体を横断する遊牧的欲望の内在性に場所を譲るのだ。このことは「古文書の一葉」において、あまり展開されていないがはっきり言われている。別の法、別のアレンジメントを証明する遊牧民たちが存在して、辺境から首都にいたるまで、彼らが移動したあとはすべてが一掃され、皇帝と衛兵たちは窓や柵の内側に閉じこもっている。このときカフカはもはや無限-制限-不連続によってではなく、有限-隣接-連続-無制限によって前進するのだ(彼にとって連続性はいつも書くことの条件であると感じられるだろう、長編小説を書くことだけでなく、短編小説であろうとも。たとえば「判決」がそうである。未完であることはもはや断片的ではなく、無制限を意味する)。
 連続的なものの観点からは何が起きるのだろうか。カフカはブロックを放棄することがない。しかしまずこのブロックは、ひとつの円周上に配分されて、その不連続ないくつかの弧だけが描かれるというふうにではなく、むしろ廊下や回廊の上に配列されるといえよう。つまりそれぞれのブロックはこの無制限の直線の上に、多少とも離れた切片を形成する。しかしこれでは十分な変化が生まれないのだ。もろもろのブロック自体が、存続する以上は、少なくともひとつの観点から別の観点に移りながら形を変えなければならない。そして実際に、おのおののブロック-切片が廊下の線の上に開放部や扉をもち、一般にそれらが次のブロックの扉の開放部から遠く離れているとすれば、それでもあらゆるブロックには裏口があって、裏口同士は隣接している。それはカフカにおいて最も衝撃的な地勢図であって、単に「心的」なものではない。二つの点は正反対の位置にありながら、奇妙なことに接触してもいることが明らかになる。この状況は『審判』においては常に見つかるもので、Kが銀行の自分のオフィスのすぐ近くの物置部屋の戸を開けると、そこは法廷の場所で、二人の監視人が処罰されている。ティトレリに会いに「法廷の一八〇度反対方向にある場末」に行きながら、画家の部屋にある奥の扉は、まさに同じ法廷の建物に通じていることにKは気づくのだ。『アメリカ』でも『城』でも同じことがおきる。際限のない連続線上の二つのブロックには、たがいに遠く離れた扉があるのにもかかわらず、隣接した裏口があり、ブロック自体を隣接させている。これでもまだ私たちは単純化して言っているのだ。廊下は折れ曲がり、小さな扉は廊下の線にそって折り曲げてあるかもしれず、事態はもっと驚異的なものになる。そして廊下の線、際限のない直線は別の驚異を準備しているのだ。それはある程度まで、不連続な円と塔の原則と結合しうるからである(『アメリカ』の別荘、あるいは塔があり、たがいに隣接しあう小さな家の集落がある『城』のように)。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
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