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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ひとりで生きる

「独身的なものとは、近親相姦的欲望や同性愛的欲望よりもずっと広大でより強度な欲望の状態である。おそらくそれには強度の低さという難点や弱点もある。役人的な凡庸さ、空転する作法、隠者の生活から出ることの恐怖とオイディプス的誘惑(「彼には隠者か寄生者になるしか生きる道がない」、誘惑-フェリーチェ)、そしてもっと悪いのは廃絶という自殺的欲望である(「彼の本性は自殺的であり、彼の歯は自分自身の肉を噛むため、肉は彼の歯のためにしかない」)。しかしこのような転落をくぐりぬけても、やはり彼は強度の生産なのだ(「独身者には瞬間しかない」)。彼は〈脱領土化されたもの〉、「中心」をもたず、「所有の法外なコンプレックス」をもたない。「彼が持つ土地は、二本の足に必要なものにすぎず、支点は二つの手で覆える範囲にすぎず、だからまだ下に網が張ってあるミュージック・ホールのブランコ乗りにも及ばない」。彼の旅は大型客船に乗るブルジョアの旅、「豪華づくめの」クルーザーの周遊ではなく、スキゾの旅、「いくつかの木の切れ端にのっかって、それらも互いにぶつかり合っていっしょに沈んでしまうような」旅である。その旅は逃走線であり、「山のなかの風見鶏」のようなものだ。そしておそらくこの旅は、動かない旅、純粋な強度における旅である(「彼は冬にあちこちで雪のなかに寝転んで凍え死んでしまう子供のように横になった」)。しかしたとえ動かなくても、逃走とは、世界から逃げることではなく、塔の中に、幻想や印象の中に避難することではない。逃走すること、「それだけが爪先立ちになった彼を支え、爪先立ちになった足だけが彼を世界において保つ(ことができる)」。凡庸そのものの独身者ほど美学に欠ける連中はいない、しかし彼ほど芸術的なものもいない。彼は世界から逃走するのではなく、世界を掌握し、芸術家的な連続的線のうえを逃走させるのである。「私はただ自分の散歩をするだけだ。それで充分に決まっている。逆に言えば、世界に私が散歩できない場所など存在しない」。家族も夫婦関係もなく、独身者はよけいに社会的であり、社会的危険人物、社会的裏切り者、たった一人で集団的である(「私たちは法の外部に存在する、誰もそのことを知らないが、結果としてそれぞれが私たちを法にのっとってあしらうのだ」)。つまりここにこそ独身者の秘密がある。彼は強度的量を生み出し、「ちっぽけな汚らわしい手紙」という最低の強度量から、「無制限の作品」としての最高の強度量まで、彼はこの強度量の生産を、直接に社会体において、社会野そのものにおいて実現する。それはただひとつの同じプロセスである。最高の欲望は、同時に孤独を欲し、あらゆる欲望機械に連結されることを欲する。ひとつの機械は、孤独であるがゆえになおさら社会的集団的であり、逃走線を描きながら、ただそれ自体として必然的にひとつの共同体にふさわしいものであるが、その条件はまだ現勢的なものとして示されてはいない。要するにこれが表現機械の客体的定義であり、私たちが見てきたように、それはマイナー文学の現実的状態にかかわり、そこには「個人的事情」などもはや存在しないのだ。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
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