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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<反美学主義2

「もろもろの系列または切片のあいだの連結点は目覚ましいポイントであり、特異点であり、ある意味では美学的印象に似ているようだ。それはしばしば感覚的質であり、匂い、光、音、接触あるいは想像力の奔放な形象、夢や悪夢の要素なのである。これらは〈偶然〉に結合される。たとえば「副検事」という断片には三つの連結点が介入する。王の肖像、無政府主義が言ったかもしれない片言(「おい、そっちの上のほうの悪党め!」)、歌謡曲(「小さな明かりが灯るかぎり…」)、それらはこんなふうに介入するのだ。というのもそれらは分岐点を規定し、系列を増殖させるからである。また検事補は、それらが多少とも近い、多少とも遠い切片同士を構成して、数えきれない多義的な組み合わせに入りうることに気づくからである〔「非難の声と歌声とがいかに結びついているか、この点についてはほとんどすべての証人が異なる見解をもっていた。告発者は、被告ではなく、別の誰かが歌ったとさえ主張した」〕。しかしながら、連結点をそれらにおいて保たれる美学的印象に還元するのは大間違いである。カフカの全努力は、むしろまったく逆方向をめざすのだし、むしろそれは彼の反叙情主義、反美学主義の表現なのだ。つまり世界から印象を引き出す代わりに、世界を掌握すること、印象のなかではなく、対象、人物、出来事において、現実にじかに触れて作業すること。メタファーを殺すこと。美学的印象、感覚あるいは想像力は、カフカの初期の試作においてはまだそれ自体として存在し、そこにはプラハ派のある種の影響が働いている。しかしカフカのあらゆる進化はそれを斥け、もはやそういったものと無関係の簡潔性、ハイパーリアリズム、機械主義を優先する。だからこそ主観的印象は一貫して連結点に置き換えられ、連結点は切片化における数々の信号として、系列の構成における数々の注目すべき、または特異的なポイントとして客体的に機能する。ここで幻想の投影について語ったりしたら、二重に過ちになるだろう。これらの点は女性の人物あるいは芸術家的人物と一致するが、こういった人物たちは、ひとつの司法機械の客体的に規定された部品あるいは歯車として存在するだけだ。……芸術家は審美家と無関係で、芸術機械、表現機械、美学的印象と何の関係もない。それに、そのような印象が女性や芸術家の連結において存続するかぎり、芸術家自身が……ひとつの夢にすぎない。芸術機械あるいは表現機械の定式は、したがってまったく別の仕方で、あらゆる美学的意図とは独立に、のみならず系列中や、その限界に客体的に介入する女性の人物や芸術家的人物の彼方で定義されなければならない。
 実際、これらの連結的人物たちは、彼らの欲望、近親相姦、同性愛の含意とともにあって、表現機械から客観的地位を受けとるのであり、その逆ではない。カフカより以上に美学的なものを一切参照することなく、芸術あるいは表現を定義しえた人はいない。カフカによるこの芸術機械の特性を要約してみるなら、こう言わなくてはならない。それはひとつの独身機械である、まさに多数多様な連結をもつ社会野につながっていることによって、ただひとつの独身機械なのだ。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
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