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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: Kの欲望

「ジッドはドストエフスキー論にこう書いている。「ドストエフスキーの作中人物はみんな同じ布地から裁たれたものである。自尊心と卑下とが、分量の多い少ないかで反応が雑多な色合いを示しているとしても、それらが作中人物の秘密の活動源となっている」。しかし卑下も自尊心も、やはりまた、様式や雑多な色合にすぎないように思われる。これらの背後には、さらに別な、もっと秘密な活動源が、自尊心も卑下もその反響にすぎない動きがある。ドストエフスキーがこの「奥底」、「私の永遠の奥底」に言及するとき、ほのめかすのはおそらく、他のすべての運動に衝動を起こさせるあの最初の運動であり、広大な騒々しい群集全体にゆきわたっている力線が集中している地点であろう。……この合流点、この奥底の定義をするのはかなり難しいことである。しかしこれも結局、キャサリン・マンスフィールドがある種の恐れとかすかな嫌悪を抱いて「接触しようというこの恐ろしい欲望」と名づけたものに他ならないといえば、おそらくそのことについての一つの観念を与えることができるかもしれない。
 こうした絶え間のないほとんど狂的ともいえる接触の欲望、厄介で心を落ち着かせる抱擁の欲望がドストエフスキーの全作中人物をめまいのように惹きつけ、どんな方法ででも他人に近づき、できるだけ奥深く他人のなかにはいりこみ、他人が身につけている不安な耐え難い不透明さをなくさせるよう作中人物を間断なく促し、こんどは作中人物をして他人に己れをひらかせ、己れの最も秘密のひだを他人に明らかにさせようとする。かれらが時折ちらりとみせる韜晦とか、束の間の跳ねあがりとか、つまらぬ隠し立てとか、矛盾とか、支離滅裂な行動とかをかれらは時として理由もなく繰り返し、他人の視線をひきつけようとする。かれらのそうした仕草は、他人の好奇心をかきたてて、かれらに近づくことを余儀なくさせるための媚態であり、じらしにすぎないのである。かれらの卑下も臆病な遠回しの呼びかけにすぎない。それは自分がまったく身近かな存在で、近よりやすく、心に一物もなく、あけすけで、献身的で、完全に相手まかせで、他人の理解力と寛大さとにすっかり委ねっ放しだということを示そうとする態度である。体面とか虚栄とかがはりめぐらした垣はいっさいとり払われていて、誰でも近づけ、気づかいなしにはいることができ、入場自由なのである。そしてかれらが突然自尊心を爆発させたとしても、それは許し難い拒絶、かれらの呼びかけには応じない態度を見せつけられたときの、苦しげな訴えにすぎない。かれらの勢いがかわされ、卑下して探そうとした道がふさがれたとき、かれらはすぐに身をひるがえして、別の接近法をとり、他人との接触をふたたびうち立て、他人をふたたび手に入れようとする。そのためにこんどは、憎悪、軽蔑、他人に加えられた苦悩、あるいはなにか華々しい行動、相手に不意打を喰わせ混乱させる大胆さと寛大さとが満ちあふれたある仕草などを用いるのである。
 …………
 接触を作りたいという不断の欲求──これはロシア人の根源的な性格で、ドストエフスキーの作品はここにしっかりと根をおろしているが──は、ロシアの地を選ばれた土地、心理的なものの真に豊饒な土地とすることに寄与したのである。
 まったく、ああした熱烈な質問と返答、接近、見せかけの後退、逃亡と追跡、じらしと軋轢、ショック、愛撫、咬み合い、抱擁といったものほど、うごめく巨大な群れを熱し、興奮させ、外部に流れださせ、拡めさせるのに適したものがあるだろうか。この群れの絶え間のない潮の干満、ほとんど感じられないほどの振動こそ生命の動悸そのものなのである。
 …………
 しかし話をドストエフスキーに戻すと、かれの全注意力と、その主人公たちすべての注意力及び読者の注意力が集中されるこうした動きは、共通の奥底から汲みとられたものであって、水銀粒のように、それぞれをひき離している蔽いを滲透して、共通の塊りの中で混じり合おうとする傾向がつねにある。このような動揺絶え間ない状態は、ドストエフスキーの全作品を一貫して流れており、ある作中人物から他の人物へ移ってゆき、すべての人物に見出され、それぞれ違った率にしたがって屈折しているのである。そしてそのたびごとに作中人物の無数の未知のニュアンスをわれわれに示し、新しいユナミスムとでもいうべきものを予感させるのである。
 探究と新しいテクニックの涸れることのない源泉であり、いまだに多くの約束をはらんでいるドストエフスキーの作品と、今日それと対立させようとしているカフカの作品とにつながりがあることは明瞭である。もし文学を継目のないリレー競争と見なすならば、カフカがバトンを受けとるのは、他の誰よりもドストエフスキーの手からであるのはたしかであろう。
 カフカのKという主人公は、その名前すら単なる頭文字だけにされていて、支えの中でも最も細いものにすぎないのはご承知のとおりである。この薄い蔽いが集めて容れてある感情、あるいは感情の束は、ドストエフスキーの全作品に導線のようにはりめぐらされている「接触しよう」という熱烈で不安な欲望でないとするなら、いったいなんであろうか。しかしながら、ドストエフスキーの作中人物の探索が、最も同胞愛の強い世界の真只中において、魂の全的でつねに可能な相互滲透と融合のごときものを目指しているのに対して、カフカの主人公の努力は、すべて、もっと謙虚であると同時にもっとはるかな目標に向けられているのである。かれらが問題としているのは、「かれらを不信にみちたまなざしで眺める人たちの友人となることではなく、単にその同胞となること」……であり、あるいは未知で近寄れない告発者の前に出頭できるようになること、いかなる障害があっても、かれらの身近な人びととの関係を、それがいかに貧しいものに見えようと守ろうとすること、などである。
 しかし、こうしたつつましい欲求は、それが絶望的に執拗であり、人間の苦悩を深くたたえ、悲愴と完全な自己放棄とを明らかにしているので、心理的な枠からはみでており、どのような形而上学的解釈をも下すことができるのである。」
(ナタリー・サロート「ドストエフスキーからカフカへ」)
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