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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<誤配達機械

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 ここでぼくの念頭にあるのは、実は、アレクサンドル・ソルジェニーツィンが『収容所群島』で記していた話なんですね。彼の記録によると、ロシア革命からスターリニズムにおけるまでの虐殺では、移動の要素がきわめて大きかったらしいのです。例えばコーカサスにいる民族を東シベリアに強制的に移動させ、その過程で民族の人口を三分の一にする、なんてことを計画的に行っていた。そして政治犯として逮捕された囚人たちもまた、一箇所に集められるのではなく、むしろ無数の収容所のあいだを数週間や数ヶ月の頻度で定期的に移動させられていたらしいですね。群島と呼ばれ、北は北極圏から南は中央アジアまで何百とあったそれら収容所のあいだの強制的移動を彼らは、「ペイシャンス(ババ抜き)」と呼んでいました。このたえざる移送は囚人たちの連帯と反抗の気力を削ぐために行われていたのですが、しかしそれはまた数少ない脱出のチャンスであり、実際に移送途中で逃亡したり行方が分からなくなった人もたくさんいた。つまりそこでは死とは、もはやあるひとつの決定的な場所(ガス室)で運命の終焉を迎えることではなく、死の場所も分からず、生死さえ不明なまま到来するもので、まさに配達(移送)途中で行方不明になった手紙のようなものなのです。そして死のチャンスはそのまま、希望のチャンスでもある。このような状況で、死者の「記憶」とは何を意味するのでしょうか。
 そして『収容所群島』がさらに面白いのは、実はこのドキュメント自体がペイシャンスを利用して作られていることです。スターリニズムの犠牲者はつねに移動しているので、相互にさまざまな情報を交換できる。「収容所群島」は何千キロに渡って散らばっていた群島でありながら、ひとつの噂の空間を作っていたわけです。例えばソルジェニーツィンは数学ができたので比較的優遇されていたのですが、その彼がある収容所で、同じ部屋にノーベル賞学者が二人いたことがあったと言っています。彼ら三人に、さらに同室だった世界的なチェリストが加わり、自主的に勉強会をやったりしている。とはいえ二週間ぐらい経つとそれぞれ移送され、勉強会はすぐ終わるのですが、しかしそのような情報交換の結節点はあちこちに出現していたらしい。そしてそれら相互のあいだには、脆弱でありながらも、しかし確実にネットワークが張りめぐらされていた。五六年のスターリン批判で収容所システムは基本的に廃止されたことになっているのですが、その後も群島は生き残っていて、七〇年にソルジェニーツィンがノーベル文学賞を受賞すると、すぐにカザフスタンの収容所から連帯の祝電が届いたりする。無論その祝電は公式のルートではなく、知人の手で運ばれてくるわけです。靴底に入れたりしてですね。だからそこではもはや、メッセージの経路は分からない。さらに言えば、その祝電が本物かどうかも分からないわけです。他にも興味深いエピソードは尽きないのですが、とにかく僕が強調したいのは、ソルジェニーツィンが──僕の言葉で言えば──きわめて「郵便的」な状態に置かれていたということです。そして彼は『収容所群島』で、まさにその噂の記憶を試みた。したがって彼の記憶はコミュニケーションの不完全性に貫かれ、当然ながら、もはやアルシーヴの形態では記憶を保存することができないのです。」
(田中純×東浩紀「交通空間から郵便空間へ」)
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