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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<悪を以って悪を制す

「個人的生活であろうが集団的生活であろうが、精神的エコロジーの重要性は、専門家した「心理学」の領域から発する概念や実践の移入を前提にするものではない。文化や日常生活、労働、スポーツのなかなど、いたるところに出現する欲望の両義性の論理に立ちむかうこと、生産性や利潤などとは異なる指標にしたがって労働や人間活動の合目的性を評価しなおすこと、こうした精神的エコロジーの要請は、個人や社会的切片といったものの総体が適切な仕方で動員されなくては実現できない。たとえば、子供の世界や退行化するおとなの世界における、侵略、殺人、強姦、人種差別といった幻想に対していかなる位置づけをおこなったらよいのか? 道徳的大原則の名のもとに検閲と拘束の手続きを倦むことなく発動するよりも、むしろ、そうした幻想の表現のマチエールを転移、移動、転換することをねらった、まさにその名に値する幻想のエコロジーを促進すべきではなかろうか。「実行行為への移行」に対して抑圧が行使されるのはもちろん正当なことであろう! しかし、それ以前に、非建設的・破壊的な幻想に見合った表現様式の整備をおこない、精神病の治療の場合と同様に、漂い出そうとする実在の領土に、その幻想があらためて接着しなおされるような仕方で解除反応が生じるようにすることが必要なのである。このような暴力の「横断性化」が必然的にもたらすのは、自我の領土がその一貫性と注意力を失ったとたんに、行く手にあるすべてのものを荒廃させようと絶えず待ちぶせ、身がまえている精神内在的な死の欲動というものの存在を必ずしも前提するにはおよばないという見方である。暴力と否定性はつねに複雑な主観性の動的編成から生じる──それは人間という種の本質に内在的に組み込まれているものではない。暴力と否定性は多数の言表作用の動的編成によって構築され維持されるのである。サドとセリーヌは彼らの否定的な幻想をほとんどバロック様式にまで高めようとつとめ、それ相応の成功にいたった。その意味では、彼らは精神的エコロジーの鍵をにぎる作家とみなされるべき存在といえよう。暴力がさまざまな姿に化身することに「想像をめぐらす」絶えざる寛容と独創性を欠くと、社会はそれらの化身を現実のなかに結晶させてしまう危険をおびるのである。」
(フェリックス・ガタリ「三つのエコロジー」)
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