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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<奇怪なréalisme4

「『信用詐欺師』には、小説についてのメルヴィルの省察が散りばめられている。そのなかでも最初におこなわれる省察では、高次の非合理主義の権利が引き合いに出される(第十四章)。人生のただなかにあっても、人生について決して何ひとつ説明がされたりはせず、人間のなかには、漠然として、識別ができず、不確定で、いかなる解明にも刃向かう領域があんなにも残されているにもかかわらず、なぜ小説家は、作中人物の振舞いを説明し、理由付けをしてやらねばならないと感じるのか? 人生によって理由付けがなされるのであって、人生を理由付けしてやる必要はない。イギリス小説は、そしてそれ以上にフランス小説は、たとえ小説の終わり近くになってからとはいえ、合理化の欲求をいだくのであり、心理はおそらく合理主義の最後の形態なのである。西欧の読者は締めくくりの言葉を待っているのだ。この点に関して、精神分析は理性の思い上がりを再度勢いづかせた。しかし、精神分析が偉大な小説をほぼ総なめに近いかたちにしたとしても、その時代の偉大な小説家のなかで、精神分析に多大な興味をいだきえたものは、ひとりとしていないのである。アメリカ小説の根源的な行為は、それはロシア小説の場合と同じで、小説を理性の道から遠く運び去ることであり、そして、虚無のなかに立ち、虚空のなかでしか生き延びられず、自分たちの謎を最後まで保ち、論理や心理に刃向かうああした人物たちを出現させることである。彼らの魂でさえ「巨大で恐ろしい空虚」であり、エイハブの体は「貝殻」だとメルヴィルは述べる。決まり文句を有していても、もちろん説明的であるはずがなく、「できればせずにすませたいのですが〔I would prefer not to〕」は謎めいた文句でありつづけ、それは地下室の住人の決まり文句に勝るとも劣らずで、地下生活者は二足す二が四になるのを妨げようとはしないが、それを〈甘受〉はしない(彼は二足す二を四にせずにすませたい、と考える)。メルヴィル、ドストエフスキー、カフカ、ムージルといった偉大な小説家にとって大切なのは、物事が謎をはらんだままで、しかも恣意的でないことである。要するに新しい論理、十全なるひとつの論理が求められているのだが、それは、われわれを理性へと導いたりはせず、生と死の親密さを把握する論理である。小説家は、心理学者の眼ではなく、予言者の眼をもっている。メルヴィルにとって、人物の三つの大きな範疇はこの新しい論理に属するのであり、同時に、新しい論理はその三つの範疇に属している。求める〈領域〉、穏やかな気候の地域から遠く離れた極北の領域に達する以上、小説も、人生同様、理由付けられる必要はない。そして、実をいえば、理性など実在せず、それは断片でしか存在しない。メルヴィルは、『ビリー・バッド』において、偏執狂者を理性の〈支配者〉と呼ぶわけで、実際、偏執狂者の意表はなかなか突けない。しかし、錯乱は行動を起こしており、偏執狂者は理性を利用するだけで、しかもそれを、実はまったくといっていいほど合理的でない至高の目的のために役立たせるから〈支配者〉と呼ばれるのである。さらに、憂鬱症者となると、これは理性からの〈除名者〉であり、しかも、理性があたえてくれないもの、つまり識別不能なものや名づけえぬものを手に入れ、それらと混ざり合ってしまうことができるようにするため、彼らがみずから進んで除名されたのではないかどうか、その点がはっきりしないのである。予言者ですら、理性からの〈遭難者〉でしかない。ヴェアが、イシュメイルが、代訴人があれほどまでに強く理性の破片にしがみつき、もとの状態に修復しようとするのは、彼らがあまりにも見すぎてしまったからであり、眼にしたものの衝撃がいつまでも続いているからだ。」
(ジル・ドゥルーズ「バートルビー、または決まり文句」)
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