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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re Re: Kの欲望(ドゥルーズとフーコーの違い)

「最後に会ったとき、ミシェル〔・フーコー〕はぼくにとても親切、かつ優しさをこめ、おおよそ以下のように言った。ぼくには欲望という言葉は耐え難い。たとえ君たちが別様に使用しているとしても、ぼくは、欲望=欠如、もしくは、欲望とは抑圧されたものというように考えたり生きたりせざるをえない。さらにミシェルは加えた。さてぼくの方、ぼくが「快楽」と呼ぶもの、おそらくそれが君たちが「欲望」と呼ぶものかも知れない。いずれにしろぼくには欲望以外のことばが必要だ。
 もちろんこれもまた、ことばの問題ではない。というのは、ぼくはぼくの方で、「快楽」ということばにはほとんど耐えられないときている。ではなぜ。ぼくにとって、欲望にはなにも欠けるところがない。さらに欲望は自然な与件でもない。欲望は機能している異質なもののアレンジメントと一体だ。それは構造や発生とは違って、プロセスだ。感情とは違って情動だ。主体性とは反対に「此性」だ(一日がもつ、一季節がもつ、一つの生がもつ個体性)。事物や人とは違って、出来事だ。そしてなによりも欲望は、強度、閾、勾配、流れの諸ゾーンだけが決める、一つの内在性の場、一つの「器官なき身体」だ。この体とは、生物学的なものでも、集団的、政治的なものでもある。諸々のアレンジメントができたり壊れたりしていくのは、この体の上であり、諸々のアレンジメントの脱領土化の諸先端、諸々の逃走線を戴いているのもこんな体だ。この体は変化する(封建制の器官なき身体は資本主義の器官なき身体と同じではない)。これを器官〔オーガン〕なき身体と呼ぶのは、あらゆる組織〔オーガナイゼーション〕の地層、有機体〔オーガニズム〕の組織だけでなく、諸権力組織にも対立するからだ。まさしく体に対する諸々の組織化の全体が、内在性の平面もしくは場を砕き、器官なき身体をそのつど地層化しながら、欲望に、もう一つ別の平面を強要するのだ。
 ぼくのいうことがこんなに混乱するのは、ミシェルに比較してみると、ぼくに幾つかの問題が出てくるからだ。……快楽は欲望の内在的過程を中断させるようにみえるので、ぼくは快楽に少しも肯定的な価値を与えられない。快楽とは、地層の側、組織の側にあるようにみえる。そして同じ運動において、欲望は快楽によって、内では法に従属させられ、外から切り離されたものとして提示される。この二つの場合のいずれにおいても、欲望に固有の内在性の場が否定される。ミシェルがサドに一定の重要性を与えるのに対し、ぼくはマゾッホの方を重視するのは、偶然ではないと思える。ぼくがマゾヒストでミシェルがサディストというのでは不十分だろう。そうであっても面白いが、事実は違う。マゾッホの中でぼくの興味をひくのは、苦痛ではなく、快楽の訪れとは、欲望の肯定性とその内在性の場を中断することになるというアイディアだ(同じように、というよりも別の仕方で、宮廷愛においても、欲望に何も欠けるものがないという内在平面、もしくは器官なき身体の構成は、そのプロセスを中断しに訪れる快楽に対しできる限り警戒する)。快楽とは、人格を逸脱するプロセスにおいて、人格や主体が「自分を取り戻す」のを可能にする唯一の方法のようにみえる。それは一つの再-領土化だ。そしてぼくの視点では、欲望が欠如の法と快楽の規範にむけて送り返されるのは同じ仕方による。」
(ジル・ドゥルーズ「欲望と快楽」)
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