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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: Re: 武器が素早く走るとき

「もう一つの根本的な点。「〔権力は〕抑圧でもイデオロギーでもない」という〔ミシェル・フーコーの〕テーゼには、相関するものが一つあり、おそらくそれに依存しているとぼくは思う。一つの社会野は、その中の矛盾からは決定されない。矛盾という考えは、包括的で、十全な考えではなく、すでに諸々の権力装置における諸「矛盾」と強い共犯関係(例えば、ブルジョワとプロレタリアという二階級)を持つ。そしてここにも、ミシェルの権力に関する理論が持つまったく新しいものがみえる。一つの社会は齟齬しない、もしくはほとんどしないということだ。そして答えは。社会は自らに戦略をほどこし、戦略化するということ。ぼくはこれを素晴らしいと思うし、ここに大きな違いがあるのをみる(戦略-矛盾)、……けれどこのアイディアにはひっかかるものがある。
 ぼくとしてはこう言うだろう。一つの社会、一つの社会野は齟齬しない、しかし第一にあるのは、社会野が逃れていくこと、いたるところでまず逃れていくこと、諸々の逃走線が第一にあることだ(たとえ「第一」が時間的な意味でないとしても)。社会野の外にあるどころか、社会野から出ていくどころか、諸々の逃走線は社会野のリゾーム、地図作成法になっている。諸々の逃走線とは、だいたいのところ、脱領土化の諸々の運動と同じものだ。自然への回帰では少しもなく、欲望のアレンジメントの先端だ。封建制において第一にあるのは、封建制が前提にする逃走線だ。一〇世紀から一二世紀についても同様。資本主義の形成についても同様。諸々の逃走線は必ずしも「革命的」であるわけではない、反対だ、しかし諸々の権力装置がふさぎ止め縛ろうとするのがこれらの逃走線だ。一一世紀前後にほとばしるように走っていた様々な脱領土化線のすべて。最後の民族侵入、盗賊、「教会」権力の脱領土化、農民の移動、騎士道の変化、領土モデルからますます離れていく都市の変形、新しい回路に注入されていく貨幣の変形、騎士道恋愛さえも脱領土化していく宮廷愛のテーマとともに変わる女性の条件等々。戦略とは、諸々の逃走線に対し、その統合、方向付け、収斂や分岐に対し、二次的でしかない。ここでもまたぼくは、欲望が第一であることを見出す。というのは、欲望とはまさに諸々の逃走線の中にあって流れの統合と分離なのだから。欲望は諸々の逃走線とは区別される。こうしてみるとミシェルは、ぼくとはまったくステータスの違う問題に行き当たるようだ。なぜなら、諸々の権力装置がなんらかの仕方で構成するものなら、それに対しては、諸々の「抵抗」現象しか存在しえなくなり、このときこの抵抗現象のステータスが問われるからだ。実際、抵抗現象の方もまた、イデオロジックなものでも反-抑圧でもないだろう。……
 …………
 ぼくには問題として残されたままだが、すでに前の研究によって解決が与えられているので、ミシェルには問題にはならないことがある。反対に、自分を勇気付けるために言うなら、ぼくには問題にならないが、ミシェルの理論上の必要や感情のせいで、かれには問題になることがある。ミシェルの中には、歴史的集団的な決定因として、諸々の逃走線、諸々の脱領土化の運動に該当するものはないようだ。諸々の抵抗現象にどんなステータスを与えるのかという問題は、ぼくにはない。諸々の逃走線が第一の決定因であり、欲望が社会野をアレンジし作動させている以上、これらのアレンジメントにより生産されながらも、同時にそれを押しつぶすか、ふさぎ止めるかするのが諸々の権力装置なのだ。自分は社会の除け者だと気取る連中に対する、ミシェルの嫌悪をぼくも共有する。狂気、犯罪、倒錯、麻薬といったものにあるロマンティスムは、ぼくにもだんだん耐え難くなっている。しかしぼくにとり、諸々の逃走線、つまり欲望のアレンジメントとは、社会の除け者気取りの連中が作るものではない。反対にそれらの逃走線は、一つの社会を横切っていく客観的な線なのだが、社会の除け者気取りの連中は、一つの社会のあちこちに身を据えて、環を閉ざし、とぐろを巻き、再コード化してしまう。だからぼくには、抵抗現象にステータスを与える必要はない。一つの社会の第一の与件が、そこではすべてが逃れていく、すべてが脱領土化するということであれば。」
(ジル・ドゥルーズ「欲望と快楽」)
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