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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<偶像崇拝批判序説3

「あらゆる感覚、あらゆる図像は、石灰質の図像のように、すでに「蓄積され」、「凝固した」感覚に属する。だから感覚が総合的性格をもつことは覆せない。それならば、この総合的性格はどこからくるのかが問題となろう。これによってそれぞれの物質的感覚はいくつかの水準、いくつかの秩序または領域を獲得するのである。これらの諸水準はどんなものか、何がそれらの感覚し感覚される統一性をもたらすのか。
 最初の答えは、明らかに斥けるべきものである。感覚の物質的総合的統一をなすものは、表象された対象や描かれたものだという見方である。図像は具象と対立するものだから、これは理論的に不可能である。しかし、仮に実際上、ベーコンもそうしている通り、何かがやはり描かれていることを認めるとしても(たとえば叫ぶ法王)、この第二段階の具象は、第一段階の具象を中和することによって成立する。ベーコン自身も、まさに図像が具象的なものと絶縁しようとする意図を確固としてもつときでも、実際的な具象を保存することが避けられないことを問題にしているのだ。私たちは彼がどんなふうに問題を解決するか見てみよう。とにかくベーコンはいつも「扇情的なもの」、つまり激しい感情を煽る何かの素朴な具象を消去したいと望んできたのである。そのことはこんなふうに表現された。「私は恐怖よりも叫びを描きたいと思ってきた」。叫ぶ法王を描くとき、そこに恐怖させるものは何もない。そして法王の前のカーテンは、単に法王を隔離し、視線から守る手段でなく、これによって、法王自身は何も見ることなく、不可視のものを前に叫ぶのである。恐怖は中和され、多数化する。恐怖は叫びから引き出されたもので、叫びが恐怖から引き出されたわけではないからだ。確かに、恐怖を、あるいは素朴な具象を放棄することはやさしくない。ときには自分自身の本能に逆行し、自分の体験を忘れなければならない。ベーコンはまさにアイルランドの暴力、ナチズムの暴力、戦争の暴力を内にかかえている。彼は磔刑の恐怖、特に磔刑の断片の恐怖、肉としての頭部や、血に染まったトランクの恐怖をくぐりぬける。しかし自身の絵について判断するとき、彼はあまりに「扇情的」なものをすべて回避している。なぜならそこに存続する具象は、たとえ二次的にではあっても恐怖の場面を再現し、こうして語るべき物語を復活させるからである。闘牛さえも、あまりに劇的なのだ。恐怖があれば、たちまち物語が復活し、叫びをとらえそこなってしまう。結局、最大の暴力は、拷問も責苦も受けずに座った図像、あるいはうずくまった図像のなかにあり、これには何も目に見える出来事は起きないが、こういう図像こそが、はるかによく絵画の力能を実現するのである。つまり暴力には、まったく異なる二つの意味がある。「絵画の暴力について語るとき、これは戦争の暴力とは無関係である」。表象されたもの(扇情的なもの、紋切り型)の暴力に、感覚の暴力が対立する。感覚の暴力は、神経系統に対する直接の作用、感覚が通過するもろもろの水準、感覚が横断するもろもろの領域と一体である。つまり図像そのものは、描かれた対象の性質に何も依存しない。アルトーの場合もそうである。残酷は一般に信じられているのとは違って、表象される何かには少しも依存しないのだ。
 第二の解釈も受け入れがたいものである。これは感覚の諸水準、いわば感覚の原子価と、感覚の両価性を混同するものだ。シルヴェスターはあるとき示唆している。「あなたはひとつのイメージのなかに感覚の異なる水準を記録するということについて語っているのだから……なかんずく、あなたは唯一の同じ瞬間において、人物への愛情と彼に対する敵意を表現しているかもしれない……それは同時に愛撫であり侵害なのだ」。ベーコンはこれに答えている。「その言い方は論理的すぎる、事実はそんなものではない。問題はもっと深いところにある。どうすれば私はこのイメージを、自分にとってもっと直接に現実的なものにすることができると感じるのか。これがすべてだ」。まさに両価性に関する精神分析学の仮説は、感覚を、絵を見つめる鑑賞者の側に位置づけるという点で不適切であるだけではない。図像そのものの両価性が仮定されるときも、問題になっているのは感情で、それは図像が、表象されたものや、語られた物語との関連で感じているものとされるのだ。ところがベーコンには感情など存在しない。ただ情動が、つまり「感覚」があるだけ、〈自然主義〉の定式にしたがうなら「本能」があるだけだ。そして感覚とは、しかじかの瞬間における本能を規定するものである。本能が、ひとつの感覚から別の感覚への移動であり、「最良の」感覚の追求であるように(最も快適な感覚のことではなく、下降や、収縮や、膨張などの何らかの瞬間に肉体にみなぎる感覚である)。」
(ジル・ドゥルーズ『フランシス・ベーコン──感覚の論理学』)
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