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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<あまりに自己批評的な2

「画家が空白の表面を前にしていると思ったなら間違いである。具象を信じ込むことは、この間違いからやってくる。実際、もし画家が空白の表面を前にしているならば、モデルとして機能する外部の対象をそこに導入することができよう。しかし事実はそうではない。画家は頭の中に、自分の周囲に、あるいはアトリエに、たくさんのものをかかえている。ところが頭の中や周囲にあるものは、すべて画布の中にすでに存在する。仕事を始める前に、多かれ少なかれ潜在的に、多かれ少なかれ現勢的に存在するのだ。こうしたものはすべて現勢的に、あるいは潜在的に、イメージとして画布の上に現前するのである。したがって画家は空白の表面をみたすのではなく、むしろ空っぽにし、片づけ、洗浄しなければならない。モデルとして機能する対象を画布の上に再現するために描くのではなく、すでにそこにあるイメージの上に描き、ひとつの画布を生み出し、その機能がモデルとコピーの関係を覆すようにするのである。要するに、定義すべきことは画家の仕事が始まる前に画布の上にある。すべての「前提」なのである。そしてこの前提には、障害になるもの、助けになるもの、あるいは準備的作業の効果をもつものさえ含まれている。
 第一に、具象的な前提が存在する。具象が存在することは事実であり、それは絵画以前に存在するのである。私たちは、説明にほかならない写真、物語にほかならない新聞雑誌、映画のイメージ、テレビのイメージに包囲されている。心理的かつ身体的な紋切り型、型にはまった知覚、追憶や幻想がどこにでもある。ここには画家にとって重要な試練がある。仕事を始める前に「紋切り型」と呼べるもののあらゆるカテゴリーが、すでに画布を占拠している。これは劇的である。セザンヌはまさにこの劇的体験を、きわめて深刻に生きたのである。画布の上にはいつも、すでに紋切り型があり、画家が紋切り型を変形したり、歪形したり、虐待したり、あちこちいじくりまわすだけで終わるなら、これはまだあまりに知的、抽象的な反応にすぎず、紋切り型が灰の中から甦り、絵画は紋切り型の要素につかったまま、あるいはパロディーという慰めしか与えない。……
 紋切り型につぐ紋切り型! セザンヌ以降に、この状況が改善されたとはいえない。われわれのまわり、頭の中には、あらゆる種類のイメージが増殖しているだけでなく、紋切り型への反発さえも紋切り型を生み出すのである。抽象絵画でさえも、紋切り型を生まないわけではない。「これらの立体と波型板金の震えは、何にもまして愚かしく、かなり感傷的である」〔D.H.ロレンス〕。あらゆる模倣者は、紋切り型から自由になったものからさえ、いつも紋切り型を復活させる。紋切り型との戦いは恐るべきものである。ロレンスが〔セザンヌについて〕言うように、一個のりんごや、ひとつか二つの器をめざして成功し勝利したなら、すでに申し分ないのだ。……だからこそ偉大な画家は、自分の作品に対して過酷である。あまりにも多くの人々が、一枚の写真を芸術作品とみなし、模倣を大胆とみなし、パロディーを笑いとみなし、もっと悪いことには、惨めな発見を創造とみなしたりする。しかし偉大な画家は知っている。ほんとうの笑いを、ほんとうの歪形を手に入れるためには、手足をもぎとり、虐待し、紋切り型をパロディー化するだけでは十分ではない。ベーコンも、自身に対してセザンヌと同じように厳しい。またセザンヌと同じように、敵が現れるとたちまち、多くの絵を反故にし、絵を諦め、投げ捨てる。彼は審判をくだす。磔刑のシリーズだって? あまりに扇情的、感覚されるためにはあまりに扇情的で、闘牛の絵でさえも劇的すぎるのだ。……ベーコンによれば、彼の作品で残るものはいったい何であるべきなのか。おそおらくいくつかの頭部のシリーズ、ひとつか二つの大気的な三枚組み絵。そして男の広い背中。ひとつのりんごや、ひとつか二つの器よりずっと多いわけではない。」
(ジル・ドゥルーズ『フランシス・ベーコン──感覚の論理学』)
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