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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ein Gott

「無に対する最も唯一的で最も稀なものとしての存在は、存在者の大衆性から退却してしまっているだろう。そしてすべての歴史は、それが固有の本質に下り達するとき、存在がその全き真理の内へ脱去することに対してのみ、奉仕するだろう。しかしすべての公開的なものは、その成功と破綻とのうちで夢想にふけり、自分を追いかけ、自らの在り方にしたがって、起こることについて何ものをも予感しない。この大衆存在と、本来的に犠牲に供せられた者たちとのあいだでのみ、少数の者たちとその同士たちとが互いに探究し合い、互いを見出して、次のことを予感するに到るだろう。それは、すべての「出来事」が速度の早いものへ、ただちに完全に手中にできるものへ、そして余すところなくむさぼるものへ、引きさらわれるとしても、それにもかかわらず、かれらにとっては或る覆蔵されたものが、すなわちあの先触れが、起こるということである。諸々の呼び求めや呼び求めの諸領域を逆転させたり取り違えたりすることは、もはや可能ではなくなるだろう。なぜなら、存在それ自体の真理は、その裂け開けの最も鋭い突出性において、本質的な諸可能性を決定にもたらしたからである。
 この歴史的な瞬間はいかなる「理想状態」でもない。なぜなら理想状態は、どんな場合にも歴史の本質に逆らうからである。歴史的な瞬間は、あの転回の自性現起である。この転回において、存在の真理は真理の存在へ到る。なぜなら神は存在を必要とし、人間は現-存在として、存在への聴従的帰属性を基づけてしまっていなければならないからである。そうであるなら、この瞬間のために、最も親密な〈間〉としての存在は、無と同じであり、神は人間を力において圧倒し、人間は神を凌駕する。それはいわば直接に、しかしやはり両方の場合ともに、性起の内でのみなされる。この性起として、存在の真理それ自体があるのである。
 …………
 「形而上学」によって定められた、存在者に対する立場、そういう立場に由来するとき、われわれは別のもの〔別の元初〕を、極めて困難かつ緩慢な仕方でしか知り得ないだろう。その結果、「個人的な」「体験」においても「大衆的な」「体験」においても、神は現われることがなく、ただ存在それ自体の底無しに深淵的な「空間」においてのみ、現われる。すべて従来の「祭式」と「教会」は、そしてそもそもそういった類のものは、存在の真中における人間の衝突を、本質的な仕方で用意することをなし得ない。なぜなら、まず最初に存在それ自体の真理が基づけられなければならないからであり、この課し与えられたもののために、すべての創造はある別の元初を採らなければならないからである。
 神が存在の真理の基づけを待ち、それとともに現-存在の内への人間の跳入を待っているということ、そのことを知る者はいかに少ないことだろうか。その代わりに、あたかも人間が神を待たなければならないかのように見え、また神を待とうとしているかのように見える。そしておそらくこのことが、最も深い〈神無き在り方〉の最も罠にかかりやすい形式であり、存在の現-途中到来の自性現起を受-苦することへの無力という、麻痺状態であるだろう。この存在が初めて、存在者が真理の内へ入り立つことのための場を提供し、存在者に対して、神の先触れへの最も遥かな遠さの内に立つことの正当性を付与する。この正当性の付与は、歴史としてのみ起こる。つまり、存在者を、その規定の本質性と、諸々の工作機構の乱用からの解放との内へ、創り変えることの内でのみ、起こる。この工作機構は、すべてを転倒させつつ、存在者を享受的利用のなかで消耗し尽くすのである。」
(ハイデッガー『哲学への寄与論稿──性起について』)
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