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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<反戦物語

「平和においては、戦争とは逆に、多くの問題が棚卸しされ、あげつらわれる。戦争においては隠蔽されるか大目に見られる多くの不正が明るみに出る。実情に反して、社会の堕落は戦時ではなく平和時のほうが意識される。社会の要求水準が高くなる。そこに人性としての疑いとやっかみが交じる。
 人間は現在の傾向がいつまでも続くような「外挿法思考」に慣れているので、未来は今よりも冴えないものにみえ、暗くさえ感じられ、社会全体が慢性の欲求不満状態に陥りやすい。社会の統一性は、平和な時代には見失われがちであり、空疎な言説のうちに消えがちである。経済循環の結果として、周期的に失業と不況とにおびえるようになる。被害感は強くなり、自分だけが疎外されているような感覚が生まれ、責任者を見つけようとする動きが煽られる。
 平和時の指導層は責任のみ重く、疎外され、戦時の隠れた不正に比べれば些細な非をあげつらわれる。指導者と民衆との同一視は普通行われず、指導者は嘲笑の的にされがちで、社会の集団的結合力が乏しくなる。指導者の平和維持の努力が評価されるのは半世紀から一世紀後である。すなわち、棺を覆うてなお定まらない。浅薄な眼には若者に限らず戦争はカッコよく平和はダサイと見えるようになる。
 …………
 平和の論理がわかりにくいのは、平和の不名誉ではないが、時に政治的に利用されて内部で論争を生む。また平和運動の中には近親憎悪的な内部対立が起こる傾向がある。時とともに、平和を唱える者は同調者しか共鳴しないことばを語って足れりとするようになる。
 これに対して、戦争の準備に導く言論は単純明快であり、簡単な論理構築で済む。人間の奥深いところ、いや人間以前の生命感覚にさえ訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。これらは多くの者がふだん持ちたくて持てないものである。戦争に反対してこの高揚を損なう者への怒りが生まれ、被害感さえ生じる。仮想された敵に「あなどられている」「なめられている」「相手は増長しっ放しである」の合唱が起こり、反対者は臆病者、卑怯者呼ばわりされる。戦争に反対する者の動機が疑われ、疑われるだけならまだしも、何かの陰謀、他国の廻し者ではないかとの疑惑が人心に訴える力を持つようになる。
 さらに、「平和」さえ戦争準備に導く言論に取り込まれる。すなわち第一次大戦のスローガンは「戦争をなくするための戦争」であり、日中戦争では「東洋永遠の平和」であった。」
(中井久夫「戦争と平和 ある観察」)
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