忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<脱出の鍵

「見当違いで、読書を導くよりは迷わせるのに適した、〔カフカ作品の〕形而上学的あるいは宗教的解釈には、さらにつぎのような弱点がある、即ちこの手の解釈は、カフカがその文章システムを写しているお手本たちの永遠性に関心をもつあまり、全体的な問題意識に明らかに影響を与えている内的な発展を見過ごすことだ。『ある戦いの記録』や『失踪者』から、『審判』や『城』へと、なるほどいくつものテーマが、まるで時間の流れとは無関係だと思いかねないような具合に、互いに錯綜し関連している。とはいえそれらのテーマは、主人公の他人および自分に対する態度の著しい変化を反映しているのであって、実生活の場で不可避の挫折を味わうにもかかわらず、主人公がどのようにして大変な苦労をしつつ大いなる光明に向かって前進し、自分自身の夢の幻影から、また集団が支配のために利用する主義主張から、完全に目覚めるにいたるかを示しているのだ。小説の主人公たちは、彼らを胚胎する時期のカフカと同じ年齢なので──ただしカール・ロスマンは例外で、彼はやっと十六歳である──、自己認識の際にひとつひとつ明らかになる進歩は、同時に、年齢と経験という、疑いもなく老いの影響によるおおむねバランスのとれた二つの長所の進歩でもある(ヨーゼフ・Kにはまだ三十歳の男の生命力があるが、四十台に近づいている「測量師」は、「城」へ攻撃をかけるときすでに大変疲れている)。そういうわけで、素朴で未経験な少年カール・ロスマンは、彼を執拗に迫害する権威者=両親、伯父、上司たちなどの犠牲となり、ゲオルク・ベンデマンは、父親の判決が宣告されただけで水に身を投げようとかけだし、反抗することのできない従順な息子として、最後になおこう叫ぶのだ。「なつかしいお父さんお母さん、ぼくはそれでもあなたがたをいつも愛していたのです!」グレゴール・ザムザは自分の変身を受動的に受けいれ、最後まで権威者たち──例のごとく両親や社会階層の上部者に具現化されている──へ依存したままであり、これこそまさしく彼が〔変身へと〕呪縛される原因のひとつなのである。この点から見れば、ヨーゼフ・Kはすでにはるかに前進している。裁判所とその腐敗した判事たちが彼を屈服させ続けるにもかかわらず、彼は彼らの投げかける挑戦を勇敢にもはねのけ、少しずつ「正義〔司法〕」の象徴と現実に起こる事柄とをへだてる大きな距離にやはり気づいてゆく。彼がさらに一歩大きく前進するのは──残念ながら手遅れなのであるが──、自分自身のことを知らないかぎり「司法〔正義〕」の機能を把握できないだろうことを理解し、自伝を書くことによって(ちょうどカフカが生涯そうすることを夢み、結局のところ小説というヴェールを通してそれを行うように)訴訟の流れを変えようと決心するときである。
 この自己認識と世界の批判的検証という二つの領域において、「測量師」は彼なりに新たな進歩をとげる、というのは、「城の紳士たち」の魔術的な権力に対して彼がいかに微力であるとはいえ、彼らについて流布している数々の伝説や迷信的な噂を盲目的に信じるほど、彼らに隷属しなくなっているからである。この点彼は驚くべき明晰さを見せることさえあるし、ついには彼をうちのめす大きな疲労を別にして、彼は恐らく彼らの帝国から充分に解放され、最後の偏見を捨て去ることだろう。彼の仕事のもうひとつの、しかもはるかに困難な面をなす内的解放について言えば、彼の無意識的な文化記憶や救済へのうち壊しがたい希望のせいで、彼がどうしても自分の個人的な救済者として見たくなる魅力的な人物たち──使い走りのバルナバスや、「城の娘」として紹介される乳母──を警戒することを学びつつ、彼はこの解放に向かって積極的に努力する。この二人の偽救済者が、一人はその名前から聖パウロの協力者を、他の一人は、ひざのうえの乳児やひたいをおおうヴェールから、「聖処女」の伝統的なイコンを想起させるとしても、決して偶然ではない。
 恐らくこの健全な警戒ぶりも、彼のあらゆるデーモンたちを祓うことができるほど、充分に強くもなければ恒常的でもない。それでも全体としてみれば、彼はこの警戒をくずさず、つらい道程の果てに、自分のまわりの一切のものに実に透徹した実に鋭い視線を向けるので、「城の紳士たち」自身が、その視線を避けざるをえなくなるほどである。すっかり疲れきっているけれど、部分的には最悪の妖怪たちから解放された彼は、めくらにされた個人たちの精神の怠惰と盲信とに堂々と支えられた、その主たちの専制の力で立ちつづけている〔城という〕全能の建造物の一角を、象徴を、表徴を、ひとつひとつ分解していったことに少なくとも満足を覚えるのだ。したがって、「お役所的なもの」の圧制に対する主人公の「自我」による征服へのゆっくりとした歩み、という角度から見れば、カフカのこの作品は、ある時期彼がそう要約するような脱出の試みであるだけでなく、彼の生活自体における真の臨床的な治療法の役割をも果たしており、それは未完成ながら、治癒への道をかなり遠くまで彼を導くのである。
 カフカの「夢に類似した内的生活」からつくられる文章表現は、本質的には脱出と治癒と救済の方向を目ざしているのだから──この三つは、彼の精神のなかでは一つのものにすぎない──、作者とその読者を、夢と無責任との魔法の領域へ引き入れることを目的としていないことは明らかである。それどころか、逆に、夢を見るひとが目覚めるのを助けることであって、その人の内で絶えず揺れ動いている漠とした力から、深い自己認識と活動のエネルギーという、それらがなければ地上にあって半ば死人、半ば生者であり幽霊にすぎなくなるものをひき出させるのだ。事実、シュールレアリストたちとは反対に、もっとも、しばしば彼らに比較され、彼らの方も彼を好んでひきあいに出すのだが、カフカは、夢のなかで、非合理なものの、抑制のない自由に達するため、現実から逃避しようとは努めない。夢を自分の努力の目的としないどころか──彼はすでに夢のなかに生きているのであり、それこそ彼が真に彼たりうる唯一の場所であるのだ──彼はつねに現実という、彼にとってまさしく不可能と禁忌の領域を追いかけるのである。彼は現実を夢に見る、まるで魔法の障害によって彼から隔てられているものを夢見るように、そして彼は、この夢に(彼は夢を、ロマン主義的な魂がそこに陶酔したがるていの、律法も国境もない国としてではなく、フロイトが分析することのできた精密な夢想と見做すのだが)、住処をもつことをおぞましくも禁止されるわけと、もし可能ならそれを無効にする手段を自分に明らかにしてくれることを求めるのだ。」
(マルト・ロベール『カフカのように孤独に』)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R