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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<脱出の動機4

「……そこで我々は、〔『罪と罰』の〕主人公が「自ら『実験』と呼ぶこの行為」(小林秀雄「『罪と罰』についてII」)の主人公への作用についての小林の考察全てを字義通りに受けとめることから始めよう。すると、それらが暗黙のうちに、だが完全に次の「矛盾」にさらされているのがわかる。
(a)「意識」のレベル それは意識の水準においては何ももたらしてはいない。主人公のなかにもがいてでも身を裂いてでも現実(外界)を感じたいという衝動があり、それがこの「実験」を招いた決定的な理由であることは確かだ。「殺人は、ラスコオリニコフの『何処でもいい、何処かに行くところがなければならぬ』、そういう場所であった」。だが、第一の犯行には老婆と彼との関係を関係たらしめる要素が全くない。内省は、何故殺しては(殺したのが)いけないのか(いけなかったのか)、という抽象的な水準だけで循環し、彼が希求する現実を決してもたらすことがない。正確には、ある現実を内省するその内省のあり方が「現実」を抹消してしまう。だから小林は書く、「何故婆さんを殺してはいけないのか、という悩ましい事前の空想が、そのまま、何故婆さんを殺したのがいけなかったかという事後の苦しい反省に変り、事件そのものは、両者の間にはさまれて消えるのである。(略)そうだ、確かに彼は外に飛び出した。が、気が附いてみるとやはりこちら側にいた。ガラスは壊れなかった。斧の一撃は、完全に彼を裏切った。彼には、成功はおそか、失敗さえする事が出来なかったのである」。
(b)「無意識」のレベル だが、小林が同時に三節の冒頭で述べているように、「架空的行為から、併し、何事かが生じた」こと、そして『罪と罰』の認識の核心を、犯行のこの「後」の水準にだけ彼がみようとしていたこともまた事実なのだ。それはたとえば、小説はやってしまった後を書くのに君はその前で停止する、だから君の作品はすべてが詩にすぎない、と三島由紀夫を一蹴した彼の姿勢が示している。……だが、やってしまった後に生じる何ごとかとは何なのか。……繰り返すが、主人公は「失敗さえする事が出来なかった」のだ。たとえば、彼が理論と実行の落差のゆえに犯行を自責し、ポルフィーリーやソーニャに諭されて倫理的に回心する、という程度の何ごとかは(a)の段階でとうに還元されきっている。「『罪と罰』を二度読んだという愛読者で、ラスコオリニコフがソオニャの前で、犯罪を悔悟したと信じ切っている人を知っている。そんな事は小説に少しも書かれていないのだが」〔「ハムレットとラスコオリニコフ」〕。
 明らかに、小林秀雄は自らの記述を形式論理的には完全な破綻に追い込んでいる。だが大切なのはここでも、記述の一方の項を切り捨てるのではなく、二つの項を不可分な分裂として一挙に共存させることである。「ドストエフスキー・ノート」は、それがどれほど「意識」の文法的な拘束に躓いているかにみえるとしても、また小林が精神分析的な認識に直接的には全く言及していないとしても、この「矛盾」の露出の中で、結果的にフロイト的な「無意識」の領域に踏み込むのである。」
(鎌田哲哉「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題──小林秀雄における言葉の分裂的な共存についての試論」)
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