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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ヘドロの詩学

「最初の数回はうまくいかなかった。なるほど夢想は生まれたが、たいした人物のそれではなかった。しかし、〈組織〉は辛抱強く待って、長期の展望を見据えていた。そして、ついにシャーロック・ホームズの物語を思いださせるようなロンドンのたそがれどきに、暗い街路のガス灯から正真正銘のガスの匂いが〈海賊〉のもとに訪れ、前方の霧の中から巨大な器官の形をした怪物が生まれでたのである。〈海賊〉は暗い足もとを慎重に一歩一歩その物体に近づいていった。それは石の歩道の上をカタツムリのようにゆっくりとこちらに向かってきた。通った後に光るねばねばした跡は、霧のせいでそう見えるわけじゃない。かれは恐怖のあまり後ずさりした。〈海賊〉とその物体の間には、交差点があり、〈海賊〉の方がちょっと早足だったので、一歩早くたどり着いて、とりあえず難はのがれたが、しかし、いちど得た認識は消し去りようもない。それは巨大な“肥大扁桃腺(アデノイド)”だったのだ! 図体が少なくともセント・ポール大聖堂くらいはあって、しかも刻一刻とでかくなっていた。ロンドンが、いやイギリス全土が危機にさらされている!
 このリンパ肥大の怪物はかつてブレイザラード・オズモ卿の高貴な咽頭をふさいでいたもの。オズモ卿は当時外務省のノヴィ・パザール地区〔セルビア、モンテネグロ、コソボに挟まれたオスマン帝国の行政区。民族間紛争が複雑に絡んで「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた〕担当官だった。イギリスの前世紀の東方政策に祟られ、かつてはヨーロッパ全土の命運がかかったこの地に関する贖罪業務を、人知れず行なっていた。
 …………
 毛皮の高帽とジャックブーツというみだらないでたちで、年頃の娘たちのコーラス・ラインがここでしばらく踊る。別の一画ではブレイザラード・オズモ卿がかれ自身の成長する肥大扁桃腺に吸収されてしまう。それはある細胞原形質がおそるべき変化を遂げた結果であり、エドワード朝の医学ではとても説明がつかない……やがてメイフェアの広場には逃げだした男たちのシルクハットが散乱し、イースト・エンドのパブの灯りの下は閑散として、主のいない安香水が漂う中を、怪獣ノドチンコが暴れまくる。とはいえ、片端からでたらめに人を飲み込んだりはしない。そう、この魔物には基本計画(マスタープラン)があって、それに役立つ特定の人物だけに的を絞って、犠牲者を選り抜いているのだ。この英国で、いままた神による新たな〈選ばれ〉が行なわれ、〈見捨て〉られた民が生まれ、内務省はヒステリックで痛々しい優柔不断に陥る……どうしたらよいのか、誰にもわからない……半ば気の進まぬままに、ロンドン市民を避難させようということになり、黒いフェートン四輪馬車が蟻の行列よろしくトラス式の橋をかたかた音を立てながら渡る。観測気球が打ちあげられて、そこから近況が伝えられる。「見つかりました、いまハムステッド・ヒースです。じっとして息をしています……吸ってえ、吐いてえ、みたいな……」「音は聞こえるか」「ええ聞こえます。とてもおぞましい音で……鼻の穴の怪物が洟をすすっているみたいな音です……あっ、動きました。ああっ、なんてことだ、こ、これは……とても放送できません、あーーーっ!」突然、回線がぱちんといって、送信が途絶え、気球は夜明けの暗青緑色の空へと上昇していく。ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所の研究者チームがやってきて、ハムステッド・ヒースを巨大な磁石で、電極で、計器やクランクで一杯の黒い鉄製のコントロール・パネルで取り囲む。軍隊も最新の猛毒ガスを詰め込んだ爆弾を携えて、フル装備でやってくる。“アデノイド”は爆破され、電気ショックを受け、毒を嗅がされ、あちこち形や色を変えて、黄色い太い結節を木々の上に突き上げる……やがて報道カメラのフラッシュの煙の中、軍の張った非常線の方へ、見るもおぞましい緑色をした偽足が音もなくのびてきて、“アデノイド”は突然胸くそわるいオレンジ色の鼻汁をザバッ!とまき散らし、観測地点一帯を消滅させてしまう。その場に居合わせた者はあえなく消化されてしまうが、悲鳴はなく、むしろ楽しげな笑い声が聞こえるだけ……。」
(トマス・ピンチョン『重力の虹』)
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