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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<有限と残酷

「ニーチェが取り除くことのできたもの、それは裁きの条件、すなわち「神性に対して負債を持っているという意識」、それ自体無限のものと化し、したがって支払い不可能なものと化すかぎりにおける負債の冒険である。人間は裁きに訴えはしない。人間が裁き得るものであり人を裁くのは、ただその存在が無限の負債に服従しているかぎりにおいてのみである。つまり、負債の無限性と存在の不滅性とが「裁きの教説」を構成すべくたがいに参照し合っているのだ。みずからの負債が無限であるなら、なるほど債務者は生き延びなければならない。あるいは、ロレンスの言うように、キリスト教は権力を放棄したのではなく、むしろ〈裁く権力〉としての新たな権力形式を発明したのである。人間の運命が「繰り延べられて」いることと、裁きが最後の審級と化すこととは、同時なのだ。裁きの教説は『黙示録』あるいは最後の審判の中に姿を現わしているが、同時に『アメリカ』の舞台にも姿を現わしている。カフカについて言えば、彼は、「見せかけの返済」の中に無限の負債を位置づけ、「無期限の支払延期」の中に繰り延べられた運命を位置づけており、これらはわれわれの経験とわれわれの考え方の彼方に裁きを保持するものである。アルトーは、神の裁きと訣別するための操作を無限なるものに対置し続けることになるだろう。四人にとって、裁きの論理は、最も陰鬱な組織の発明者としての司祭の心理と混じり合ったものである──私は裁きたい、私は裁かねばならぬ……。人は、まるで裁きそれ自体が遅延され、明日に延期され、無限に先送りされているかのように振舞うことはない。反対に、繰り延べ、無限へと運ぶ行為こそが、裁きを可能にするのである。つまり、裁きはその条件を、時間の秩序の内部で存在と無限とのあいだに仮定された一つの関係から手に入れるのだ。この関係の中に身を置く者に、裁く力そして裁かれる力が与えられるのである。認識判断でさえ空間と時間と経験のある無限性を内包しており、この無限性が空間と時間の内部に諸現象の存在を限定しているのである(「いつも……する度に」)。だが、認識判断は、この意味において、道徳的かつ原初の神学的形式を前提としており、その形式によって、存在は時間の秩序にしたがって無限へと関係づけられていたのである。すなわち、神に対して負債を持つ者としての存在者。
 しかし、それでは、いったい何が裁きからみずからを区別し得るのだろうか。……存在者たちは、ただ時間の流れを構成するにすぎない有限な諸関係にしたがって、たがいに敵対し合い、償い合う。ニーチェの偉大さは、債権者-債務者関係こそがあらゆる交換に対して第一次的なものであるということを、いかなる躊躇もなしに明示したことにある。人はまず始めに約束する。そして負債とは、何か神といったものに対して生ずるものではない。そうではなくそれは、当事者間を移行し、状態の変化を惹き起こし、当事者のうちに何か──すなわち情動──を作り出す、そんな諸力に応じて、相手に対して生ずるものなのである。すべては当事者間において生起するのであり、中世の神明裁判も神の裁きではない──と言うのも、そこには神も裁きもないからだ。モースが、ついでレヴィ=ストロースがなおも躊躇っているところで、ニーチェは躊躇いをみせなかった。すなわち、そこにはあらゆる裁き=判断力に対立する一つの正義が存在し、その正義によってさまざまな身体がたがいに刻印をしるし、一つのテリトリーの内部で循環する有限なブロックにしたがって、負債は身体にじかに書き込まれるのだ。法=権利は永遠なる事物の不動性をそなえているのではなく、血統を継承しあるいは引き渡さねばならない諸家族のあいだを絶えず移動していくのである。諸身体に傷跡をつけ彩色するのはすさまじい記号、さまざまな描線と顔料であり、それらは、各人が何を負っているか、そして各人に何が支払われるべきかを肉体いっぱいに開示している。それは、まさに残酷のシステムと言うべきものであり、その谺はアナクシマンドロスの哲学やアイスキュロスの悲劇の中にも聴き取れる。裁きの教説においては、反対に、諸々の負債は──それと気づかれることすらなしに──一冊の自律的な書物〔=聖書〕の中に書き込まれており、したがって、われわれはもはや無限の勘定書から放免されることができない。その書物が、永遠なるものを引き合いに出してくるような〈所有権〉の死んだ記号のあれこれをすでに記録しているかぎり、われわれはみずからのテリトリーを剥奪され、そこから追放されている。裁きに関する書物上の教説が穏やかなのは外見上のことにすぎない。なぜなら、それはわれわれに終わりのない隷属を宣告し、あらゆる解放のプロセスを消去するものであるからだ。アルトーは、残酷のシステムに崇高なる発達を遂げさせることになるだろう。それはすなわち、ちょうど正義が裁きに対立するのと同じように、書物のエクリチュールに対立し、記号の真の逆転を引き起こす、血と生のエクリチュールである。それはまたカフカのケースでもあるのではなかろうか──『審判』という大きな書物に『流刑地にて』の機械を対置するときのカフカ、すなわち、古い秩序を表わすと同時に契約と告発と弁護と評決がそこにおいて混じり合うような正義をも表わしている、そんな身体への書き込みを対置するときのカフカのケースでもあるのでは? 残酷のシステムが、みずからを触発する諸力とともに存在する身体の有限なる諸関係を言い表わしているのに対し、無限の負債の教説のほうは、さまざまな裁きへの不滅の魂の諸関係を規定している。いたるところで裁きの教説に対立しているのは、残酷のシステムなのである。」
(ジル・ドゥルーズ「裁きと訣別するために」)
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