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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<物質代謝の亀裂4

「まず、前提となるのは、漢字を知るまで日本には固有の文字体系がなかったということである。もともと日本語は、文字という概念そのものがなかったような場所、すなわち「書く」ということがどういうことなのかが全く問題外であるような場所でのみ自足的に流通していた。そのような領域に漢字が伝来したということは、単に未知の文字が伝来したということではない。文字というものが伝来したということでなければならない。だとすれば、漢字受容にあたっての困難とは、未知の文字を覚えなければならないという困難ではない。それ以前に、文字とは何であり「書く」とはどういうことなのかに関して新たに概念を発明しなければならないという困難であったにちがいない。
 …………
 話をわかり易くするために、英語をアナロジーにしてこれを考えよう。「書く」とは何かということを英語のシステムにおいて初めて知った日本人が、「書く」ためのシステムを持たない日本語を残念に思い、日本語でも「書く」ことができればと考えたとしよう。しかし、「書く」システムとしては英語しか知らないのだから、たとえば「陛下がお隠れになりました」という日本語で言い表される事実を書き表そうとしても、彼が実際に書けるのは、たとえば“The emperor has died.”という文章にかぎられる。……
 ここにはチグハグな奇態さがある。意図と結果との間に意外なアンバランスがある。しかし、〔本居〕宣長が「先大御国にもと文字はなかりしかば、……萬事、かの漢文の格のままになむ書ならひ来にける」と述べていたところは、極端なアナロジーをとれば、「陛下がお隠れになりました」と書こうとして“The emperor has died.”と書かざるをえなかったということにほかならない。そうである以上、このアナロジーにおいて増幅された突飛なチグハグさや奇態さは「漢文の格のままに」書くことに、もともと含まれていたと言ってよい。固有の文字体系を持たなかった日本人にとって、文を「書く」ということには、何とも突飛な奇態さやチグハグさが含まれていたにちがいないのである。
 我々はもはやそのようなチグハグさや奇態さを意識しない。だが、文を「書く」という行為は、日本語においては本来、不自然な異和を含むものではないだろうか。後に示すように、上代の日本人はこの異和を痛感したからこそ、あたかも傷口を縫い合わせるように訓読というプログラムを考案した。現代の日本文にも通じるような和「文」もこのプログラムに従って生成する。……
 再びアナロジーに戻ってこの点を考えてみよう。そこでは“The emperor has died.”という文は「陛下がお隠れになりました」と書こうとして記された以上、実質的には、そのまま和「文」と化している。この文は「ジ・エンペラー・ハズ・ダイド」ではなく「ヘイカガ・オカクレニ・ナリマシタ」と「よま」れるべき文なのである。注意すべきなのは、訳文がそうなるという意味においてではなく、音的な「よみ」がそうなるという意味において、そう「よま」れなければならないということである。「陛下がお隠れになりました」と書こうとして“The emperor has died.”と書いたのである以上、そう「よま」れなくては、書き手は困ってしまう。
 とはいえ、書き手の事情が何であれ、読み手に与えられている文は“The emperor has died.”であるのだから、何も知らされていないかぎり、読み手がこれを読んで「ヘイカガ・オカクレニ・ナリマシタ」と「よむ」可能性はない。読み手にそう「よま」せるためには、まず、これが英文ではなく和文であること、次に和文としては「陛下がお隠れになりました」と「よむ」べきであることを何らかの形で指定しなければならない。……訓読とはまさにこの困難な課題に取り組んで考案されたプログラムにほかならない。たとえば、書かれた中文を和文とするためには、その中文から一定の「よみ」を何としても引き出させなければならないが、訓読とはこの「よみ」を引き出すための考案、和「文」というシステムにおけるプログラムなのである。」
(山城むつみ「文学のプログラム」)
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