忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<物質代謝の亀裂3

「ところで、「〈動物〉」との関係に関して、このデカルト的遺産は近代全体を規定しています。デカルトの理論は、動物の言語活動は応答なき記号体系であると、すなわち諸々の反応はあるけれども応答はないと仮定します。カント、レヴィナス、ラカン、ハイデガーは、(認知主義者たちとまったく同じく)この件に関してデカルトとほとんど同一の立場をとります。彼らは反応応答を区別します。またその際、この区別に依拠するあらゆるものを伴っていて、それにはかぎりがありません。この遺産は、そのなかにどのような差異があるにしても、本質においては、すなわち実際上重要な点においては、動物にたいする人間の関係についての近代的思考を統御しています。近代的な権利概念は、コギト、主観性、自由、主権などのデカルト的契機に大きく依存しています。もちろん、デカルトの「テクスト」がこうした巨大な構造の原因であるわけではなく、構造をその症候の強力な体系性において「表象=代表」しているのです。……
 動物への抑圧的挙措という公理系は、その哲学的形象について言えば、カントからハイデガー、レヴィナス、ラカンにいたるまで、デカルト型のままです。彼らの言説にどのような違いがあっても、このことは変わりません。動物への抑圧的挙措というこの公理に、ある種の法哲学と人権哲学は従属しています。したがって、動物全般にではなく、ある特定のカテゴリーの動物〔猿、海豚など〕に人権と等価の権利を絶対的に割り当てようとすることは、破滅的な矛盾であるでしょう。そんなことをすれば、機械的な哲学および法律が再び生み出され、そうした機械によって、食料や労働や実験などのために動物という資材が(専制的に、言い換えれば、権力の濫用によって)利用〔=搾取〕されるという事態が遂行されることになるでしょう。
 …………
 私はといえば、スリジでの講演「動物──私がそれであるもの」のまだ未公刊の部分で、アドルノのあるテクストを注意深く分析しています(そのテクストに全面的に賛成というわけではありませんが)。そこで、アドルノは、自律性、人間の尊厳、道徳的な自己命運決定あるいは自己規定といったカントの観念のなかに、自然にたいする主人的支配や主権の企てばかりでなく、「動物たちに向けられた」本当の敵意、残虐な憎しみを読み取ることができると言っています。動物たち(「動物!」)にたいする、あるいは動物としての人間にたいする「侮蔑」は、「真正な観念論」の弁別特徴だと言うのです。
 アドルノはこの方向を突き進めます。動物たちが観念論のシステムにおいて潜在的に演じている役割を、ユダヤ人がファシズムのシステムのために演じる役割になぞらえさえします。今やよく知られている、そしてさらに説得力のある仕方でしばしば蔓延るこの論法に従って、動物とユダヤ人の形象に、女性や子供、さらには障害者一般の形象を結びつける向きもあるでしょう……」
(ジャック・デリダ×エリザベート・ルディネスコ「動物たちへの暴力」)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R