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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<善悪の彼岸のヴォードヴィル

「セリーヌは、したがって一九四七年に、呪われ、追放され、再び厄介な存在として戻ってくると、全面的な象徴的死を宣告される。彼はコペンハーゲンの三メートル四方の独房から出て来ると、悲惨な状態で暮らす。もう彼以外に時宜を得ないとんちんかんな者は誰ひとりいない(同じ頃に精神病院の監禁から生き残ったアルトーを別にすれば)。それは全面的に責任を負うべき人間、おあつらえ向きの贖罪の山羊だ。命は助かったが、まだこれから彼は自分の本を守らなければならない。そしてまさにそのとき、ひとりきりの孤独な男と事実上全員とのあいだで、ものすごい勝負が始まるのである。
 ……かつてないくらい「社会」は良いものであることを確信していて、その自発的な偽善性は自己-宣伝のステレオタイプをとおして機能している。したがってその主要な敵は、社会がそれを信じさせたがっているように、良からぬ考えをもった個人や過激主義者やテロリストではなく、まさにより明確に、より複合的に、別の仕方で自己を表現する者となるだろう。セリーヌ自身が広告のパロティーの達人であって、彼はそれをひっくり返し、そのエネルギーの方向をそらせ、良き戦略家として、つねに弁明を攻撃と取り替えなければならないことを知っている。悔い改めよ! いやだ。彼は自己弁護せず、ほとんど釈明しないし、彼が不平を言うとしたら、それはけっして彼の心理状態ではなく、身体的拘束のことだ。彼はでしゃばることはないだろう。具体的な生存の条件、貧困、ヘビー級の重圧。《金が無ければ、どんなことにもおびえていなければならない、それがあれば、どんなことにもお構いなしでいれる、そこにドラマがある、唯一のドラマが》。あるいは、要約すれば、《この世は万事が金だ》。だが彼はもっと先まで行く。贖罪の山羊、人はセリーヌに対して、せめて彼が深刻で、自分の過ち〔反ユダヤ主義〕を身にしみて、悲劇的で、悲壮で、責任があって、信心に凝り固まっているか、悔悛の情に浸り切っていることを期待する。セリーヌにあってはそんなものは何ひとつない、彼はおどけた、《お伽話》の道化役のテクニックを(『旅』の辛辣なところを遥かに越えて)発展させようとしている、わざわざペテン師や、ごろつきや、それとも精神薄弱者たちによって闇取引されたスペクタクルが問題であるかのように、世界中を笑い者にすることをねらったひとつのテクニックを。きみたちは私を有罪にしたいのか? 私はきみたちをグロテスクな仏頂面、腹黒い寄生者、《青二才の躁病患者》としてすぐさま非現実化してやる。きみたちは私の腸内フォーナとフロラ、私のウィルス、私の黴菌、私の掘り出し物のリズムの下宿人、依怙地で、もごもご言ってる私の羨望者なのだ。裁判官たちは犯罪者のお陰でたまたま存在していることがわかって、狂信的なまでに彼をねたんでいるのだが、いずれ、さらにもっといたずらなやり方で、そいつは刊行者自身のこととなるだろう。……」
(フィリップ・ソレルス「セリーヌの戦略」)
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