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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: プロヴァンスの系譜

「陽光により祝福され歌と踊りがさんざめくところ、プロヴァンスがモーラスの出発点であり、かれの素地を形づくった。パリでは謹厳でとおり浮いた話はひとつもなく私生活のない男といわれたモーラスは、故郷のマルティーグに帰ると極めて評判が悪かったという。というのもかれが知り合いの娘たちを誘っては、港でアンジュー酒をかたむけながらブイヤベースをつまみ昼食をともにすることを好んだからであるということで、モーラスの隠れたプロヴァンス気質がかいまみえて興味深い。しかし、このような南フランスのユーフォリズムは、聾音によってモーラスから永久に奪われてしまった。もちろん音が失われても、黄金の光とその輝きを眺めることの至福はそのままに存在しつづけている。しかし聴覚のないかれにとって世界の甘美な輝きはかえって酷く無縁に感じられ、かつてとは全く別なものに変わってしまったに違いない。……
 モーラスは純粋な哲学、形而上学的な思考を認めなかった。また同様に実用科学や科学技術を忌まわしいものとみなしていた。かれが認めたのは思想と人間の生活がせめぎあう政治闘争と政治思想であり、物や言葉と人間の思考や意志が一体となる文学、美術といった美の領域だった。というのもモーラスは決して陽光を眺めること、外の世界に視線をなげかけることはやめなかったし、また自分の孤立した運命としての沈黙を生きることを、厭いもしなかったからである。
 このようなモーラスの美学を反映して、かれの詩作は言葉のいわば物質性ともいうべきものと詩想の同時的な一致を追求する行為にほかならなかった。言葉のもつ響きや調べ、諧調、音韻と、歴史上の詩的テクストに対して一つ一つの言葉が担ってきた関係と意味の総体が、モーラスの沈黙の世界から発する詩作への意志、形式のもつ調べと出会うときにきしみながらあらわれるものをモーラスは詩と呼んだのである。つまりモーラスの古典主義とは、たとえば十八世紀に殷賑を極めたドリール師流の、ギリシア・ラテンの古典詩人の詩作を真似て形式的あるいは擬古典的な詩の外面的完成度と参照の豊富さを追求するものではなく、詩作を文学的創造性といった企図から切り離して、言葉と調べと思いのダイナミズムとして規定し、トルバドゥール以来とだえてしまった口承文学の富と伝統を取り戻すことにほかならなかったのである。いわばモーラスの方法論は、詩作を言語と思考の和解不能な対立、葛藤から詩をひきだすこととして規定し、音韻やシラブル、詩型、参照といった言葉の物質的制約や抵抗を洗練されてかつ強固であり緊急の用につねに応えるように規則化し便覧化することで、言葉と思いの対立を単純にかつ鋭いものにする戦略であった。もちろんこの形式と諧調への強いこだわりには、失われた世界としてのプロヴァンスの「音の王国」の記憶、さざめく歌声への執着があったことは想像にかたくなく、音韻とリズムへの強い関心が古典的詩形式の追求につながったのである。」
(福田和也『奇妙な廃墟』)
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