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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<機械とは欲望である

「アレンジメント〔自律編成体〕は、小説にとって特権的対象であるが、二つの面をもっている。それは言表行為の集団的アレンジメントであり、欲望の機械状アレンジメントなのである。カフカは最初にこの二つの側面を分解したばかりではなく、彼が二つを結合した結果はひとつの署名のようなものであって、それを通じて読者は彼を必然的に認知するようになるのだ。『アメリカ』の第一章を見てみよう。これは「火夫」という題で別に発表されたものだ。問題となるのは、まさに機械としてのボイラー室である。つまりK〔カール・ロスマン〕は、技術者になりたい、または少なくとも機械工になりたいという意図を、つねにあからさまにするのだ。しかしボイラー室そのものが描写されないとすれば(それに船は停泊中である)、機械それ自体が決して単に技術的なものではないからだ。反対にそれが技術的であるのは、もっぱら社会的機構としてであって、これが歯車のなかに男女をとりこみ、あるいはむしろその歯車のあいだに、男女のみならずモノ、構造、金属、物質を配置するのである。そのうえカフカは、疎外され機械化されるなどした労働条件だけを考えているのではない。彼はそれらを間近にみて知っていたが、彼の天才は、男女が労働においてのみならず、それ以上に近接するもろもろの活動において、休息において、性愛において、抵抗において、怒り等々においても、機械の一部となっていることを考えるところにある。機械工は機械の一部である。単に機械工としてではなく、作業を中断するときにも機械の一部なのだ。……エクリチュール機械はオフィスのなかにしか存在せず、オフィスはその秘書たち、副長たち、ボスたち、また行政的、政治的、社会的、さらには性愛的配置とともにしか存在しないのであって、そういう配置がなければ「技術的なもの」さえも存在しないだろうし、決して存在しなかったのだ。つまり機械とは欲望であるが、それは欲望が機械欲望であるからではなく、欲望がたえず機械のなかに機械を生み出すからであり、先行する歯車のわきに、不確定な仕方でたえず新しい歯車を形成するからである。たとえこの歯車が抵抗し、不協和な仕方で機能するようにみえることがあっても、このことに変わりはないのだ。厳密に言えば、機械を構成するのは連結であり、分離を条件づけるあらゆる連結なのである。
 技術的機械はそれ自体、その前提となる社会的アレンジメントにおける一部品でしかなく、社会的アレンジメントこそが「機械状」と呼ばれるに値するということ、このことは別の側面に私たちの注意をうながす。要するに、欲望の機械状アレンジメントは、言表行為の集団的アレンジメントでもあるということに。だからこそ『アメリカ』の第一章は、ドイツの火夫の抗議にあてられ、火夫は彼のすぐ上のルーマニア人の上司に不平を言い、ドイツ人が船上で被っている抑圧に抗議するのだ。言表は、服従、抗議、抵抗等々に関するものであり、全面的に機械の一部である。言表はいつも法的であり、つまり規則にしたがって作られる。まさにそれは機械の使用法を構成するからである。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
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