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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 美女がいない野獣

「ベンヤミンによれば、カフカの世界においては、一方では、啓蒙理性の暴走(啓蒙の自己崩壊)によって「経験」が貧困化してしまっており、人間は夢遊病者のようにあてもなく彷徨し、自分がどこに向かっているかさえ分からなくなっている。他方、「経験」を持続ないし刷新させる「伝統」の圏内でしか成立しえない真理そのものは、病み、腐朽し、その実体と力を喪失している。『城』の主人公Kがいつまでも城に行き着けないように、人間世界でこれまで保持されてきた真理が、どこか手の届かないところに隠れ込み、消え失せてしまっている。そこに広がっているのは、真理が崩壊したあとの不気味に狂った世界だけだ。これは逆に言えば、カフカの文学においては、どこかに存在しているはずの真理が、なお倦むことなく求められつづけている、ということでもある。つまり、カフカにおいては、(こんな言い方が許されるのであれば)真理がなお形式だけを残しているということ、今は空になっているとはいえ真理の容器だけが維持されているということである。カフカは闘い(革命)を求めている。しかしその革命たるや、こわれた玩具の鉄砲を武器にしようという──まさに形式だけの──とんでもないものである。アパートの廊下に貼り出された革命のためのアジビラはこう始まっている(「八折版ノート」所収の遺稿メモ)。「ぼくは五丁の子供の銃を所有しています。ケースに収めて一丁ずつ鉤に吊るしてあります。一丁はぼくのですが、他のものについては、ほしい人は申し出ていただきたい。(…)団結が必要なのです。団結がなければ、わたしたちに前進はありません」。むろん、銃をほしがる者など誰もいないし、ビラに目を留める者さえいない。「やがてこれらのビラは、屋根裏から流れてくる汚水のなかに浮かんでいた」。カフカは、真理を断念しているが、真理の空の容器は、いずれ満たされるべきものとして確保しつづけている。この点こそ、ベンヤミンのカフカ解釈の核心をなすものと言って過言ではない──あとで見るように、カフカの挫折からの反転の契機はここにこそあるのだ。カフカの文学は、おびただしい暗示ないし比喩を通して、その容器にあたかも堅固な真理が詰まっているかのような見かけを作り出す。真理はとっくに朽ちてしまってはいるが、やはり頑として存在しているという構えである。
 この矛盾し、ねじくれた構え──ベンヤミンはこれがカフカの文学の天才的なところであり、美しさであり、また苦しさだと言う。「カフカのそもそも天才的なところは、彼がまったく新しいことを試してみた点にある。彼は、真理のほうを捨てて、ハガダー〔ユダヤ教の説話〕的要素としての伝承可能性を確保したのだ。カフカの文学は元来が比喩である。しかし、それが比喩「以上のもの」にならずにおれなかったところに、彼の文学の苦しさと美しさがある」。」
(道籏泰三『堕ちゆく者たちの反転──ベンヤミンの「非人間」によせて』)
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