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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: リアリズムの身振り(奇怪なréalisme5)

「……ここ〔ベンヤミン「一枚の子供の写真」〕で強調されているのは、カフカのカフカの全作品が、意味を拒絶する「身振りの集成」になっているという点である。「はっきり分かるのは、カフカの全作品が身振りの集成だということである。それらの身振りは、もとより作者にとって確たる象徴的な意味をもってはおらず、いつも別の連関と実験的配置のうちに意味を求めてくる。(…)カフカは、人間の身振りから伝来の支えを取り払い、そのあとで、この身振りを、終わることのない考察の対象にするのだ」。まさに死(無意味)をはらんだ写真的描写にほかならない。写真に映る死んだ細部がいつまでも意味不明でありつづけるように、カフカにおける身振りの詮索ももとより終わることを知らない。どこまで行っても泥沼である。カフカは物語を何かしら寓話めかして描こうとするが、それらは何ひとつ教訓、つまり「教え」らしきものをもたらすことがない。「カフカの比喩には、何か教えが備わっているだろうか。カフカの描く動物たちの身振りやKのしぐさのなかに、何か教えなるものが説かれているだろうか。そんな教えなどありはしない。せいぜい、あれこれのものが何か教えをぼんやりと仄めかしている、としか言えないのだ」。同じことはこう言い換えられてもいる。「カフカは、しぐさというものを理解できなかった。そのため、彼の描くもろもろの寓話の雲をつかむような個所が出来上がる。カフカの文学はそうしたしぐさから生まれ出ているのである」。つまり、写真の解読が確定的でありえないのと同じく、カフカの描写は初めから、「教え」に到達できないまま頓挫することを宿命づけられているということだ。ベンヤミンはこう続けている。「カフカは自らを、挫折せざるをえなかった者たちのうちのひとりに数えていた。文学を教えに変え、文学に寓話としての堅牢さと奥深さ──これこそ彼には当然唯一ふさわしいものと思えていた──を取り戻そうとする彼の壮大な試みは挫折している。「汝、偶像を刻むなかれ」に彼ほど忠実に従った者はいない」。」
(道籏泰三『堕ちゆく者たちの反転──ベンヤミンの「非人間」によせて』)
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