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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<死体派

「死んだものを──いや、ものをあえて殺したうえで──意味撹乱的な文字として新たに蘇らせようとする思考、これがベンヤミンのいうアレゴリー的思考である。言い換えれば、生きたものの生が排出され、死物となったところから生まれ出る思考、生の側からではなく死の側からなされる思考である。人間で言えば、生きた人物総体ではなく、死体となった人物を対象とする思考であり、バロック悲劇の舞台で死体が次々と産出され、供覧に付されるのは、深いところでこのアレゴリー的思考に関わっている。ベンヤミンは言う。「身体のアレゴリー化を徹底させるには、死体をよすがとするしかない。バロック悲劇の登場人物たちが死ぬのは、ただ死体になってのみアレゴリーの故郷に入るからである。彼らは、不死になるためにではなく、死体となるためにこそ滅びるのだ」。死んで総体性を失い、空洞になった人間に恣意的な意味を投げ入れること──バロックにおいては人間と世界はもとより空洞であった──それがアレゴリー的思考、死の側から意味を産出しようとする思考である。「死体の産出は、死の側から見るなら生である。(…)生きている者から死物のように切り落とされてゆく爪や髪が死体からも生えてくるのは、いわれのないことではない。「死を思え」が、身体のなか、身体記憶そのもののなかで目覚めているのだ」。死体から生えてくる爪や髪は、死からの再生であり「目覚め」である。アレゴリーとは、この爪や髪としての「身体記憶」の「目覚め」であり、死んだものの蘇生にほかならない。こうした死の側からの思考は、文明の閉塞した人間中心主義に対抗するベンヤミン独特の〈原初的唯物論〉──原初をめざす唯物論──とでも言い換えていいかもしれない。
 …………
 浄化ならぬ「壊死」、これがアレゴリー的思考に貫かれたバロック悲劇の核心と言ってよい。バロック悲劇は、この「壊死」性のゆえに、シンボル(象徴)を通して世界に一種の浄化をもたらそうとするドイツ古典主義美学から排撃されることとなった。ベンヤミンは、この排撃の一方的な無理解さと不当さと傲慢さを批判するとともに、シンボルとアレゴリーの関係を、生の側からの思考に対する死の側からの思考という対立関係として捉え直そうとした。以下、その見方を端的に示した箇所を引用しておこう。それは、シンボルと対比させたかたちでの彼のアレゴリーの決定的な定義となっているばかりでなく、ひとえに「全人間」的なるものを目指してシンボルのみを担ぎ上げる古典主義的思考の独りよがりの偏頗性を、〈脱人間〉の視点から厳しく衝くものともなっている。「シンボルにおいては、没落が浄化されることによって、自然の変貌した顔が一瞬救いの光のうちに現れ出るのに対して、アレゴリーにおいては、歴史のヒポクラテスの顔〔死相〕が硬直した原風景となって考察する者の眼前に広がったままである。そこでは、歴史がそもそもの原初より抱えている未熟なこと、痛ましいこと、仕損じたことすべてが、ひとつの顔つき、いや髑髏の顔つきを刻印されて現れ出る。……」」
(道籏泰三『堕ちゆく者たちの反転──ベンヤミンの「非人間」によせて』)
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