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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<二十二世紀のアレゴリー

「本書〔ヴィルヘルム・エムリッヒ『アレゴリーとしての文学』〕は、中世以来の文学的伝統や宗教的伝統、あるいは人文主義や自然哲学や神秘主義などとも絡めながら、歴史的な観点からバロック・アレゴリーの広がりを探ると同時に、これが放つ独特の魅力をさまざまな面から指摘することによって、アレゴリー表現一般にひそむ隠れた力を明るみに出し、現代に蘇らせようとする。その際本書がめざすのは、基本的には、アレゴリーを従来のゲーテ的、古典主義的な偏見から解き放つこと、アレゴリーには、かたちは異なるけれどもゲーテのいう象徴に匹敵するだけの無限の表現力がひめられているという点を強調することによって、芸術的表現という点からアレゴリーを象徴といわば同格に引き上げることである。たとえばヴェッカーリンのオードをめぐる解釈でとりわけ力説されているのは、バロックのアレゴリーにおいては、もとより事物に有機的な生命を吹き込むことは問題になりえないが、ゲーテとは別の意味で、意味のめくるめく深淵への突入がめざされ、果てしなき無限の活動が繰り広げられているという点である。「バロックの〈寓意画〉は、それが指し示す意味が直接言葉にされ、〈言表〉される〈アレゴリー〉である。むろん、直接〈言表〉されると言っても、そのために〈深い意味〉が失われたり、意味の無限性が損なわれることはない。アレゴリー詩人は、時間の崩壊というものがそうであるように、個々の意味をすべて暴力的に嚥み下しながら、次々と無限に比喩から比喩へ飛び移ることによって、そこに、見極めがたい意味の深淵を開くからである。ヴェッカーリンのオードは、このことを印象深く示しており、その意味でこれは、ゲーテ以来とだえることなく主張されてきた見方、アレゴリーは有限で制約的な解釈をもった合理的構成物にすぎず、芸術的価値などもたないといった見方に対する歴然たる反証でもある」。言うまでもなく、ここで前提とされているのは、古典主義的世界観とはまるで異なるバロックの世界観、「空の空、空の空、いっさいは空なり」に象徴されるあのバロックの暗澹たる現世崩壊のさまである。アレゴリーは、そうした崩壊状況のなかで、空虚になった世界の没落とそれにおののく心の動揺を、その言語形式のまさに存在論的な無限の深みにおいて表出的に語り出しているというわけである。「細断されたすべての現象の没落のなかには、いわば現世の没落が映し出されている。すべての現象を計画的に積み上げてゆく操作は、諸現象の徹底的な空無化ないし断念をあらわすと同時に、底なしの現世に対する恐怖におののく心の激動の表出でもある。これらのアレゴリー的比喩から読みとれるのは、合理的に対象化された有限世界ではなく、想像もおよばなくなったこの世の深淵への墜落であり、その意味では、ゲーテの念頭にあったのとは別の意味であるとしても、彼の象徴の定義にあるのと同じ〈無限に活動しつづけているもの〉〈把捉することのできないもの〉〈語り尽くすことのできないもの〉である」。
 これは、より大きな観点から補足的に言い直せばこうなる。つまり、ゲーテの象徴が事物を「語り尽くすことのできないもの」としての有機的総体性の仮象のなかへ解消させ、そこで一瞬事物を浄化させようとする方法であるのに対して、アレゴリーは、そもそもそうした総体性が崩壊してしまった世界で、言葉を撹乱的ないし破壊的に無限増殖させながら、あくまで断片としての言葉ないし事物に「無限に活動しつづける」力を付与し、象徴とは異なるかたちながらも、同じように「語り尽くすことのできないもの」に肉薄しようとする方法だということである。……それゆえアレゴリーは、宗教的に強く規定されつつも、その内実において総体性が崩壊してしまったバロックの時代に強烈にあらわれるだけでなく、迷宮のごとく錯綜したバロックの悲劇や小説のなかで、その錯綜を解く指標としてアレゴリーが登場するのと同様、時代の全体的動向が不明になってしまった現代にも重要な意味をもって出現することになる。「アレゴリー文学は、個人の運命よりも普遍的真理や理念が重視される時代、したがってとりわけ宗教的に強く規定された時代に出現するように思える。しかしそれだけではなく、たとえば現代の大衆産業時代などのように、普遍的意味がことごとく蔽い隠され、時の真の動きや権力が個人には見えなくなってしまった時代にも現われる。この場合、個人の運命の形成が確実ではなくなるため、作家は、この集合的な力を明確にしなければならず、そのため必然的に、この力をアレゴリー(もっともそうした操作はもはや〈アレゴリー〉とは呼べないかもしれないが)に託して表現せざるをえなくなるのである」。つまり、支配と伝達の道具に貶められた言語によって不可解なかたちで構成され、いつまでも不透明なまま存続しつづける現在の硬直した現実を、無限の多義的活動としてのアレゴリーによる言葉の撹乱を通して揺り動かし、それによって現代を蔽う目に見えぬ「集合的な力」を浮かび上がらせること、それが、アレゴリーが現代に対してもつアクチュアリティーのひとつだということである。」
(道籏泰三「廃墟的構築としてのアレゴリー──訳者あとがきにかえて」)
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