忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<原文で読む

「私がムージルを翻訳したのは、『愛の完成』と『静かなヴェロニカの誘惑』という二本の作品で、訳したのは昭和四十二年、三十歳のときです。まもなくドイツ文学の道からそれて、以降十六年間も作家稼業をやっていますが、年々歳々、月に日に文章に苦労しています。日本語の口語文というのはどうしてこうもやわなのか、もうちょっと堅固ならばラディカルなこともできるのに、簡単な観念の関係さえなかなかあらわせない。もう長年そればかりに苦労していますので、日本語に関してはいささか修行を積んだはずです。その分、ドイツ語のほうはおろそかになりましたが。
 ところが、今年に入ってカフカの仕事がありまして、ならば翻訳を読んで書けばよさそうなものの、やはり文体にこだわる人間は原文につかないと苦しいのです。それにかつての翻訳者として、原文と訳文との関係、これがそんな簡単な対応関係ではないこともよくわかっていますので、カフカのことを書くにつけても原文を読み返したい。というわけで無理をしてあらかたの作品を読んだのですが、そのとき気がついたことに、十六年間ほとんどお留守にしていたけれども、読解力はある意味ではかえって強くなっている。さすがに日本語のほうで苦労しただけの甲斐はあるなと思いました。
 といいますのは、言葉の具体的な値と抽象的な値とが、年もとったせいでしょう、その感じ分けがだいぶつくようになった。現実のレヴェルと抽象のレヴェル、より精神的なレヴェル、そういうものの見分けも前よりは確かになりましたので、昔、現実のレヴェルのことを精神のレヴェルで理解しようとしたり、精神のレヴェルのことを現実のレヴェルで受け止めようとして読めなかったところが整理されて、その意味では前より読めるようになった。このたびもムージルの作品を原文で読み返して、ついでに恥ずかしながら自分の翻訳を読んでみましたら、いまの私がみたらちょっと耐えがたい日本語だろうなと思ってましたところが、さすがに若いだけあって体力があったのでしょう、また時間もふんだんに使ったせいか、なかなか頑張っているという感じでした。いまの年の私が見てかなわないなと思ったところは、読み込むときのエネルギーです。エネルギーがありあまっているので、名詞で言い表していることを、しつこく文章にひらいたり、いくつかの文章に割れているのを一つの名詞に閉じ込めたり、ずいぶんの力わざをやっています。
 それでつくづく、そういえば異国の言葉や異国の発想にふれるときの握力みたいなもの、理解力などといわないでグッと握り締める力は、今のほうがいささか衰えているなと、反省したしだいです。」
(古井由吉「精神による実験」)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R