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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<存在論的民族主義

「現存在は覚悟性においておのれ自身へ立ち帰って来る。その覚悟性は、本来的実存のそのつどの事実的可能性を開示する。そしてそれはこれらの可能性を、それが被投的覚悟性としてみずから引きうける遺産のなかから開示するのである。覚悟をもって被投性へ立ち帰って来ることのなかには、伝えられてきた可能性をみずから伝承するということが含まれている。もっとも、そのさいそれらの可能性が伝来のものとして理解されている必要はない。すべての《善きもの》が相続財産であるとすれば、そしてそれの《善さ》が、本来的実存を可能にすることにあるのだとすれば、遺産の継承はそのつど覚悟性のなかで、成り立つものなのである。現存在の覚悟が本来的であればあるほど、すなわち、死への先駆において現存在がひとごとでない際立った可能性からおのれをまぎれなく了解すればするほど、おのれの実存の可能性の選択的発見は、それだけ曖昧さと偶然性のすくないものになる。死への先駆のみが、あらゆる偶然的な《暫定的な》可能性を追いはらう。死へむかって開かれた自由のみが、現存在に端的な目標を与えて、実存をおのれの有限性のなかへ突きいれる。みずから選びとった実存の有限性は、さまざまに誘いをかけてくる安楽さや気軽さや逃避などの手近かな可能性の限りない群がりから現存在をひきずりだし、それを自己の運命(Schicksal)の単純さのなかへ連れこむ。ここで運命というのは、本来的覚悟性のなかにひそむ現存在の根源的経歴のことであって、そこで現存在は死へむかって自由でありつつ、相続され、しかもみずから選びとった可能性における自己自身へと、おのれを伝承するのである。
 現存在がさまざまな運命の変転にみまわれることがあるのは、現存在がその存在の根拠において、ここに述べた意味で、運命として存在するからである。現存在は、おのれを伝承的に付託する覚悟性において運命的に実存しつつ、世界=内=存在としては、《幸運な》事情の《廻りあわせ》や偶発事の苛酷さにむかって開かれている。運命というものは、雑多な事情や事件によって奔走させられる。いな、彼は、みずから選んだ人よりもいっそうはなはだしく奔走させられ、それでいて本当に運命を《持つ》ということができないのである。
 先駆しつつおのれのうちに死の威力をたかめるとき、現存在は死にむかって打ちひらかれて自由になり、その有限的自由にこもるおのれの超力において自己を了解する。そして、そのつど選びをみずから選びとったことのなかにのみ《存在する》この有限的自由において、現存在は、おのれ自身へ引きわたされていることの無力を引きうけ、そこに開示される状況のもろもろの偶然へむかって透察的になることができる。しかし、運命的な現存在は、世界=内=存在たるかぎり、本質上、ほかの人びととの共同存在において実存しているのであるから、その現存在の経歴は共同経歴であり、共同運命(Geschick)という性格をおびるのである。それはすなわち、共同体の運命的経歴、民族の経歴のことである。」
(ハイデガー『存在と時間 第一部第二編第五章』)
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