「柄谷 …………
ちっぽけな闘争一つとったって、最初のヴィジョン、それを修正したヴィジョン、というふうに絶えまなくフィードバックしているわけで、そういうプロセスを綿密に記述した「総括」というものに、お目にかかったことがない。みんな、われわれは、正しかったが裏切られたとか、権力に弾圧されたとか、挫折したとか、歯の浮くようなことばかりでしょう。
昔の戦争には、観戦武官とかがいて、戦闘のプロセスを互いに批評しあいますね。左翼の運動には、そういう種類の「批評」が、昔から全然ないですね。自己絶対的な主張ばかりでしょう。……
どうして批評がないんだろうか。間違ったら、なぜ間違ったかとか、かりにうまくいっても、じつは予想外にうまくいったのだとか、そういうことをできるかぎり厳密に分析すべきだと思うんですが、率直にそれを言う人は、ほとんどいない。
たぶん、それは政治的人間がいないということだと思うんです。抒情的なんですよ。だけど、それは文学的なんじゃないですよ。文学というのは、きわめて自己批評的なものなんで、むしろ反“文学的”なのです。」
(柄谷行人×長崎浩「全共闘運動と60年安保」)