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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<統合が失調してゐる3

「このように妄想をさまざまな執念とむすびつけて考えるのは、精神療法的に意味のあることではないだろうか。
 執念とは何だろうか。妄想がかくも持続するのはどうしてだろうか。第一に、患者は自分を「善人」と考えていることを指摘したい。自分の側の「悪」を自分の中から排除しつくしているからだ。自分は「真っ白」なのである。「悪」が自分の中にないならば、「善人」である自分が思うとおりにならないのは、外部のせいである。この善悪の構造はマニ教的二分法であって、冷戦時代の米ソの勢力境界線のように長い間変わらない。変わろうとすると復元力が働くので変化しない。
 ……たいていの患者は、わざわざ自分を「善人だ」と明確に意識し唱えているのではない。それは彼にとって、わざわざ意識にのぼらせて考察するまでもない自明なことである。そして、患者の自己規定にはもう少し「ひねり」がある。それはどういうことかというと、「自分はお人よしである」という自己規定である。「お人よし」と「善人」とは違う。「お人よし」は権力世界において「利用される側」である。患者は自分を「お人よし」と思い、しかしそれに甘んぜず、「お人よしだから片時もうっかりできない」と警戒心を高めているのが、彼等の実情である。
 この点をきくと、たいていの患者が賛成する。「人はあなたのことを疑い深い人と考えているようですが、実は、あなたは自分はお人よしと考えておられるのではありませんか?」というと「私はお人よしです」「そうですね」という答えがかえってくる。決して「いや、うっかり者などではないですよ」といわれることはない。
 「お人よし」ということは「被害者」になりやすいことだ。患者は「お人よしだから欺されてもしかたがない」とは考えない。「欺されたら大変だ」「一巻の終わりだ」「ふたたびはいあがれない」という感じがある。これは彼の安全を脅やかす。また、劣等感を刺激する。一方、「欺かれてたまるか」という憤激もある。これは権力意志に由来している。
 多くの妄想患者は、自分がお人よしであることを治療者が認定し、容認し、肯定するとかなり楽になるようだ。おぼれそうになっている者がしがみついている杭から、足をひっぱって引き離そうとすれば、杭をつかむ手に力がはいろうというものだが、そうではなくて、こういう患者の自己規定を肯定的にとらえるならば、手はゆるむ。個々の妄想を肯定してもほとんど意味をなさないが、それとは対照的である。患者の闘っている妄想的な闘いは本質的に孤独な闘いであって、友情や支援はありえないのである。万一、妄想的な闘いに支援者があらわれて共同闘争をしようとするならば、おそかれはやかれ内部抗争が起こって、支援者が一番憎悪される対象になるだろう。権力意志には一般にそういうところがあるのだろう。だから、ほんものの権力者の内部抗争があれほど陰惨で容赦ないのかもしれない。一般に支配欲とは、孤独に関する二律背反のワナに自分から落ちてゆくことである。」
(中井久夫「説き語り「妄想症」」)
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