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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<つまらない殺人の美化

「かつて酒鬼薔薇事件が起きた時、『文藝』が「人を殺してはなぜいけないか」を特集したことがあったが、「人を殺す」ということは、文学の中では今はありきたりで陳腐で、最初から答えの用意されている安全な問いに過ぎなくなってしまった。それよりは「人を犯してはなぜいけないのか」が問わなければいけないのではないか。……
 「犯す」ことと「殺す」ことの違いは何か。それは前者において被害者が加害者に対して応答可能性を持つのに対して、後者では応答可能性を持たないことである。「殺す」ことは、その意味で「犯す」ことより無責任であり、文学的カタルシスによって美化しやすい。大澤〔信亮〕氏が、「加害者の人権」を守ろうとする「人権論者」に怒りを抱く犯罪被害者の遺族に一定の理解を示しつつ、それにもかかわらず加害者を「文学」の名によって理解しようとする時、ドストエフスキーの名前を出すのは典型的な身振りである。この連載は短期集中連載とのことで、まだ全体が分からないので確かなことは書けないが、大澤氏は「加害者の人権」ではなく「加害者の神権」とでも言うべきものを守りたいのだろうと察せられる。
 小林秀雄・秋山駿から山城むつみ、そして大澤氏と、ドストエフスキーに触発された批評家たちは、みなそれぞれの仕方で「加害者の神権」を文学的に称揚して来た。「加害者」は「人殺し」になることで「神」となりうる。「被害者」は「被害者」であるが故に「神」になりえず「人」でしかない。「殺す」ことを問うことは「人」を「神」に引き上げ、「犯す」ことを問うことは「神」を「人」に引き下げる。」
(大杉重男「古井由吉の「神の手」」)
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