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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<つまらない殺人の美化2

「リヴィエールの物語は、ちらしの上で語られる殺人記事として、当時、犯罪をめぐる大衆の記憶のようなものを形作っていた一連の叙述と、少なくとも形式の上では通じ合っている。……
 三流新聞のタイトルに頻出する、「詳細」、「事情」、「説明」、「出来事」といった言葉に注目しなければならない。こうした言葉は実際、新聞や書籍が同様の事件に与えていた重要性との関連においてこの種の言説が果たしていた機能を、非常によく指し示している。それはすなわち、規模を変え、スケールを拡大し、事件の微小な細部を浮かび上がらせ、日常的なものが物語となるための門戸を開く、という機能である。こうした変化を引き起こすためには、一方では、普段なら品位や社会的な重要性を欠くためにそこに登場することのない要素、人物、名前、行為、対話、対象などの要素を、叙述のなかに招き入れなければならない。そして他方においては、そうした取るに足らない事件のすべてが──頻繁に起こり代わり映えのしないものであっても──、「特異」で、「興味深」く、「常軌を逸し」た、ほとんど類例のないものとして、人々の記憶のうちに現れなければならないのだ。
 そういうわけでこうした叙述は、馴染み深いものと注目に値するもの、日常的なものと歴史的なものとの変換機の役割を果たしうることになる。そしてこうした変換において、以下の重大な三つの操作がなされるのだ。まず、人々が自分の目で見たり口々に語り伝えたりして村や郡の周縁で広まる物語のすべてが、常軌を逸したものという形をとることによって、万人に語られうるもの、広く文学に書き起こしうるものとなる。こうしてそれらの物語は、ついに印刷された記事にふさわしくなる。すなわちエクリチュールへの移行がなされるのだ。そしてこれと同時に叙述がその地位を変える。それはもはや人づてに語りつがれる不確かな噂話ではなく、型通りの細部まで決定的に固定されたニュースになるのだ。こうしたニュースは上から受け取られる。流布していた噂が、告知に姿を変えたのだ。最後に、それによって村や街路は、それ自体で、外的な介入なしに、歴史=物語を生み出すようになる。」
(ミシェル・フーコー編『ピエール・リヴィエール──殺人・狂気・エクリチュール』)
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