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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ぼくはだれだ6

「私が私の身体とかかわりをもって以来、したがって生れてからこの方、私はもはや私の身体ではない。私がひとつの身体を得て以来、私はもはやその身体ではなく、それゆえ、その身体を所有してもいない。この喪失が私と生との関係を設定し、教える。私の身体はそれゆえ久しく私から奪われている。ある一人の「他者」でなければ一体誰が私の身体を盗みえたのだろうか? さらに、どのようにして、そいつは原初において私の身体を奪い取ることができたのだろうか? 《あたかも、誕生が久しく死の悪臭を放っていたように》、もしわたしの代りにそいつが母の腹のなかにしのび込まなかったのだとすれば、もしそいつが私の代りに生れなかったとすれば、もし私が誕生のときから奪われていたのでないとすれば、もし私の誕生が私からちょろまかされていたのではないとすれば。死は盗みのカテゴリーのもとで考えられる。死は、われわれが──確信をもって──人生と称している一過程の、あるいは一冒険の終局として先取りできると思い込んでいるようなものではない。死は、われわれの他者との関係の分節された形式なのだ。私は他者が原因でしか死なない、つまり他者によって、他者のために、他者のなかで死ぬ。私の死は代理される、たとえこの代理という語をどのように変化させようとも。そしてもし私が《究極の死の瞬間》に代理によって死ぬとしても、この代理的な剽窃はそれでもなお、原初から私の存在の全構造を作りあげてきたことに変りはない。だからこそ、極限状態において、《人はたった一人では自殺しない。/生れるに際して誰もけっして一人ではなかった。/死ぬに際しても誰もけっして一人ではない……/そして究極の死の瞬間にはつねに他の誰かがおり、われわれからわれわれ自身の生を奪い取ってしまうのだと、私は思う》。……
 …………
 私の作品であり、私の痕跡でありながら、私の誕生から私が盗まれて以来、私から私の財物を奪う糞便は、それゆえ拒否されなければならない。しかしここでは、糞便を拒否するとはそれを投げ捨てるのではなく、保持することである。私を守るには、私の身体とことばを守るには、作品を私の内に保持し、作品と私とのあいだに「盗人」が入り込めるようないかなる余地も残しておかぬように作品と一体になり、作品が書かれたものとして、私から離れたところへ落ちてゆくのを防がねばならない。というのは、《書かれたものはすべて、豚のように汚らしい》からである。かくて、私から私を奪い遠ざけるもの、私の私自身との近接状態を壊すものは私を穢すことになる。つまりそこで、私は私の固有なるものを放棄したのだ。……
 糞便のように、これまた周知のペニスの隠喩である糞便の棒のように、作品は立ったままでなければならないであろう。ところが、糞便としての作品は質料でしかない、つまり、生命もなく力もなく形もない。作品は私から離れるといつでも落下し、すぐに崩れる。それゆえに、作品が──詩作品であれ他のものであれ──私をけっして立たしめないのである。私が私を立たしめるのは、けっして作品のなかにではない。救いや規約や存=立は、それゆえ、作品のない芸術において初めて可能となるであろう。作品とはつねに死の仕事であるから、作品のない芸術、つまり舞踊や残酷劇は生そのものの芸術となるであろう。《生といってもよかったのだろうが、私は残酷といったのだ》。」
(ジャック・デリダ「息を吹き入れられたことば」)
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