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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<小説という抽象機械2

三島 中村さんがこの評論〔「仮構と告白」〕のなかで「現実はこれを言葉で精細に表わそうとすればするほど、筆者の創作になって行くという性格を帯びてくるので、現実の生き生きした再現とみられる文章は必ず仮構なのです。」と書いている。私小説はそのパラドックスを十分狙ったものだけれども、こんどわれわれが逆手をやろうとするとまた問題が起きてくる。逆にいうと、「創作は言葉で精細に表わそうとすればするほど事実となってあらわれるという性格を帯びてくる」とはいえないでしょう。そうなると実に言葉というものと関係ができてきちゃう。芸術ということをまず考えて、虚無を言葉で精細に表わそうとすればするほど筆者の現実になってゆくということがほんとうに信じられれば、そこで勝つわけだ。だけどそれがどうしてもそうゆかないわけよ。逆のほうは相対的に成功したわけだ。つまり現実は言葉で精細に表わそうとすればするほど創作になってゆくという点で私小説がかりにも芸術になっちゃった。それで彼らは一つの方法論を会得して、なるほど現実生活をごちゃごちゃ書いて、そうして何かを買って幾ら払って、持って帰って、それを食べておなかをこわしちゃったということを書けば、それはますます創作に近づくというのでそこに芸術理論ができた。その逆理論というのは横光の「純粋小説論」以外にないでしょう。……ぼくたちのやりたい一番のところはそこなんだな。ジャン・ジュネはみごとにそれをやっている。虚無を精細に表わそうとすればするほどそれが現実になってゆく。……そこにやはりぼくの考える芸術の理想があるのです。ぼくは昔から芸術至上主義といわれてきましたけれども、必ずしもそうではない。作品に匹敵する現実のプレザンスがあればそれでもいいのだ。場合によってはそれのほうが大事だと思うことがあるわけです。そういうと自己弁護になるみたいだけど、芸術至上主義というと私小説で、ぼくのような考えは芸術至上主義の反対でしょう。むしろ芸術侮辱でしょうね。」
(中村光夫×三島由紀夫「対談・人間と文学」)
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