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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<物質代謝の亀裂5

「近松らの江戸期の隠者にかぎらず、日本文学の持続がつねに時勢の転換によって生き埋めにされかかった人々の手で維持されて来たのは、注目すべき事実である。私はかならずしも、政治的敗者が文学を自己表現の手段に選んで来たというのではない。それならある意味で普遍的な現象であり、たとえばドストエフスキーとペトラシエフスキー事件の関係、あるいはスタンダールとナポレオン戦争、米国の新批評派と南北戦争の関係などに明らかである。しかし、日本の場合には、古代から現代にいたるまで、文学の一貫した持続そのものが、つねに時代の転換から置き去りにされかけた階層によって保たれて来たように見受けられるというのである。
 日本の歴史で、時代を転換させて来た主動因はほとんどつねに外圧であり、新時代は外来思想の導入によって成ったから、文学の持続が落伍者によって保たれたということは、それが外圧、あるいは外来思想に対するある恨みを含んだ反撥を母胎としたということを意味する。この反撥がもっとも稔り多い結果を生んだのは、おそらく外圧の影響がもっとも敏感に自覚されたときであった。日本文学の特性というものがあるとすれば、それは多分こういうとり残された階層の反撥によって嫉妬深く守られたのである。その怨恨の底にあったのがいったい何であったかを、私は正確に指摘することができない。しかし、それはおそらく自然な呼吸を乱されることへの不満というようなものであったにちがいない。生活様式や思想の次元でどれほど外来の要求に適応できても、人は言葉という虚体を活かしている呼吸──その呼吸を息づかせている深い情緒を捨てることはできない。」
(江藤淳『近代以前』)
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