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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<無の前のエスプリ3

「昭和十年代、この東海の寺の住持だった高僧が、支那事変の慰問に出掛けた。彼は説教会場に集められた兵士に、愛国的な演説も、国民の心得も述べなかった。
 彼は、「人というのは、ほっといても何れ死ぬものだ。だからいくら殺しても罪になんかなりはしない。いくらでも殺しなさい」と語った。
 すると、緊張していた兵士たちの間から穏やかな笑い声と、嘆声が漏れたと云う。
 この言葉は、大方の読者を憤激させるだろう。だが私は、恐ろしく思いながらも、納得する。
 彼は、兵士達の罪悪感を除いてやろうとしたのではないし、救済しようと試みてもいない。たしかに兵士達は、敵が殺しても構わない存在であることを識る。だがそれは、自分達も、殺されても何の支障もない存在であると認める事だ。そして恐らく、後者の認識の方が、兵士達にとって意義深かったのではないか。
 これこそが批評だ、と、今の私は思っている。
 それはまず、戦争は悪だと叫ぶ、あるいは奴らを殺せと唱える思想や哲学、理想、スローガンへの批判であり、殺し殺される現実を意味ありげに見せる歴史や政治への批判である。
 と同時に、敵を殺すことで生き延びる者、敵を殺すことを仕事とする者、現世のもっとも覆いない地点に立っている者、つまり如何なる来世の栄光や思想も色褪せる場所にいる者の言葉で語り、彼らに理解させ、己を顧みる事を促している。認識によって彼らの居る場所を克明に描き、精神を弾ませ、笑わせる。それはまさしく生き返る心地だろう。」
(福田和也「批評私観」)
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