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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<個人的黙示録

「……マイナー文学の第一の特性は、言語が脱領土化の顕著な要因に影響されることである。……
 マイナー文学の第二の特性は、そのなかではすべてが政治的であるということだ。「大規模な」文学においては反対に(家族や夫婦などの)個人的事項が、同じく個人的な別の事項と合体する傾向があり、社会的領域は、環境として、また背景として奉仕するものにすぎない。……マイナー文学はまったく異なって、その狭い空間では、それぞれの個人的事項がそのまま政治につながるのだ。だから個人的事項は、そのなかでまったく別の話題がひしめいているので、なおさら必然的、不可欠であり、顕微鏡で見るように拡大されるのだ。……
 第三の特性は、あらゆることが集団的価値を帯びているという点である。実際にマイノリティ文学においては才能がみちあふれているわけではないので、巨匠に属する個人的言表行為が生まれる状況がないのだ。そのような言表行為なら集団的言表行為から分離されることも可能なのである。したがってこの才能の希少性という状態は、まさに好都合で、巨匠の文学とは別のものに目を向けさせる。つまり作家がたったひとりで述べることが、すでに共同的行為となり、たとえ他者たちが賛成しないとしても、作家の言うこと為すことは必然的に政治的となる。政治の領域がすべての言表に伝染するのだ。とりわけそれ以上に、集団的または国民的意識が「外的生活においてしばしば不活性的で、つねに退行しつつあるので」、文学こそが、集団的さらには革命的言表行為の役割と機能を肯定的に引き受けることになる。文学こそが、たとえ懐疑的態度を含んでいても、能動的な連帯を生み出すのだ。たとえ作家が周縁にあり、脆弱な共同体から孤立していようとも、この状況のせいで彼はなさおら別の潜在的共同体を表現し、別の意識、別の感性にいたる手段を鍛え上げる。まさに「ある犬の研究」の犬が、孤独のうちに別の科学を要望するように。こうして文学機械は来たるべき革命機械のための仲立ちになるのだが、それはイデオロギーが理由ではまったくなく、ただ文学機械だけがその世界のどこでも欠如している集団的言表行為の条件を決然としてみたすからである。つまり文学は、民衆の問題となるである。カフカはまさにこのような語彙を通じて問いを提出するのだ。言表は、その原因となる言表行為の主体にかかわるのではなく、その結果となる言表主体にもかかわらない。おそらくカフカは、ある時期には、これら二種類の主体の旧来のカテゴリーにしたがって思考していた。つまり作者と主人公、語り手と登場人物、夢見るものと夢見られるものといったカテゴリーである〔「田舎の婚礼準備」の時期〕。しかし彼は早々と、語り手の原則を放棄し、またゲーテを讃えるにしても、作家主体の、巨匠の文学を拒むのである。鼠のヨゼフィーネは、自分の歌の個人的レッスンをやめ、「(彼女の)民衆の英雄たちの数知れぬ群れ」の集団的言表行為に溶け込もうとする。個体化された動物から群れへの、あるいは集団的多数への移行、たとえば七匹の音楽犬である。あるいはまたやはり「ある犬の研究」のなかで、孤独な探求者の言表は、犬という種の集団的言表行為のアレンジメント〔自律編成〕をめざすのである。たとえこの集団がもはや存在しなくても、あるいはまだ存在しないとしても、主体など存在せず、言表行為の集団的アレンジメント〔自律編成〕があるだけである。──そして文学は、これらのアレンジメント〔自律編成〕が外部に与えられておらず、来たるべき悪魔的な勢力として、または構築すべき革命的な力として存在するという条件において、これらを表現するのである。カフカの孤独は、いま現在、歴史を横断するすべてのものにむけて彼を開く。Kという文字はもはや語り手でも登場人物でもなく、まったく機械状のアレンジメント〔自律編成〕を、まったく集団的な動因を指示するのだが、それは一個人が孤独のうちにあってもそれらに接続されているからである。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)

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