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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<群的人類

「群と集合は異なる。集合とは、或るものがそれに属するか否かが、少なくとも理論上、はっきり弁別されるような集まりであればいいので、そのものが、いかなるものであっても差支えないのだ。これに反して、群においては、これに属する任意の二つのものの間に、なんんらか一定の結合法があり(例えば加法)、それによって結合した結果が、やはりその同じ群中の或る一つのものでなければならぬという条件がある。条件はこれだけではない。群を形成する個々のもの、A、B、Cをその群の原素といい、各原素は単に(例えば加法によって)結合可能であるにとどまらず、さらに各々の間に、(AB)C=A(BC)なる関係をもっていなければならない。次に群中の任意の原素Aにたいして、AE=Aとなるような原素Eが存在していなければならず、このEを単位原素と称する。これが第三の条件だ。そうして、最後に、各原素にたいして、その逆原素なるものがなければならぬのである。逆原素とは、群中の任意の原素Aに対して、AX=Eなるがごとき原素Xを意味する。
 簡単にいえば、群とは、以上の四条件を備えた集合のことなのだ。私はかならずしもコンドルセ流に、群論の炬火によって倫理学および政治学を照らそうと考えるものではないが、すくなくとも社会の秩序の意味を定義しようと試みるとき、群論にたいして聯想することを拒むことができない。社会とは単なる人間の集合ではなく、一定の条件にしたがった「群」のごときものではあるまいか。群論は、組織の条件を最も厳密に定義してくれるのではなかろうか。組織には加法のばあいには零であり、乗法のばあいには一であるような単位原素としての組織者が必要であり、さらにまた、原素とともに逆原素の存在が不可欠なのではないか。
 …………
 ……ガロアの群論を、新しい社会秩序の建設のために取りあげることは、おそらく乱暴であり、狂気に類することかもしれない。しかし、人情にまみれ、繁文縟礼にしばられ、まさに再組織の必要なときにあたって、なおも古い組織にしがみついている無数のひとびとをみるとき、はたして新しい組織の理論を思わないものがあるであろうか。」
(花田清輝「群論」)
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